永遠を繋ぐ
という発想も成り立つのではないか。そこでイメージしたのが、
「リピート」
であった。
リピートというのは、一人の人間が何度も自分の人生を繰り返すというもので、永遠の命とは、少し発想が違う。永遠の命は、時系列に沿って繋がっていくものだが、リピートは、
「一度歩んできた人生を、再度ある時点に遡って、もう一度歩み直す」
というもので、永遠の命とは、時系列以外にも何か違いがあるのかということを考えてみた。
「永遠の命を繋いでいるという感覚は、実際に持つことはできない気がするが、リピートは、人生を何度もやり直しているという意識を持つこともありではないか」
というものであった。
浦島太郎の話を、
「永遠の命を繋いでいる」
という発想で考えるなら、リピートは浦島太郎の話になぞらえてはいけないことなのだろうか?
「いや、あながちそうだとは言えない」
一度歩んだ人生を、再度歩むことができるとすれば、もちろん、意識を持ったままでなければ意味がないだろう。そういう意味では、浦島太郎の話を書いた人、あるいは、話を考えた人は、どこから持ってきた発想なのだろうか? そう考えると、この話がいくつものパーツから成り立っているというのも分からなくもない。それだけテーマが存在しているのかも知れないと思うからだ。
「夢と現実だって、交互に繰り返しているじゃないか現実の方が圧倒的に長いんだろうけど、人間は眠らないと生きてはいけない。つまり、絶対に夢を見る環境には自分を持っていくことができる。ただ、夢を見たということを覚えているか覚えていないかというだけの違いじゃないか」
と、藤崎は考えている。
藤崎がスナック「コスモス」で謎かけのように話した中には、これだけの思いが含まれている。永遠の命を繋いでいるということを聞いて、聞いた人間が、まず何を発想するかということに興味があった。
このリピートという発想は、なかなか藤崎の中で生まれてこなかったが、もし、
「永遠の命を繋いでいる」
ということを感じなければ、もっと早くにリピートという発想が生まれていたのではないかと思うと、不思議な感覚に陥っていた。
――同じ人生を繰り返すという発想は、パラレルワールドに繋がるものだ――
と思っていた。
可能性の数だけ発想があり、さらに次の瞬間には、さらに可能性の数だけの発想がある。ある一点を起点にすれば、ネズミ算式に、どんどん発想が膨れ上がってくることになる。なかなかこの発想に行きつかないのは、ネズミ算式に膨れ上がる発想を食い止めようとする見えない力によるものなのかも知れない。
藤崎は、今まで書いたSF小説の原点になっているのがおとぎ話であることを意識していた。特に、
「見てはいけない」
ということであったり、
「開いてはいけない」
ということに意識が集中していたのである。その言葉と、自分が夢で見ることが、どこか結びついているような気がして、小説のネタの基本が、そこにあるような気がして仕方がなかった。
最初は、小説のネタを考えるのに、一つのことに執着してしまっては、皆同じパターンの小説が出来上がってしまうことを危惧していた。しかし、同じような話であっても、違う結論を結びつけるのであれば、立派な違う話が出来上がる。いかに同じようなネタをたくさん発想できるかというのも、幅広いジャンルで書いている人と、さほど変わりはないのではないかと思うのだった。
特に、プロの作家には、自分のジャンルというものが存在する場合が多い。きっと皆同じような悩みを最初は抱きながら、試行錯誤を繰り返す中で、自分独自のジャンルを築き上げたに違いない。
藤崎は、小説家としての自分の限界を感じてはいた。それでも書き続けるのは、
「自分のジャンルを持っているからだ」
と思っている。
「今は世間に認められないかも知れないが、時代が変われば認められる時がやってくる」
というのが、藤崎の考えだった。
だから藤崎は、
「俺は、永遠の命を繋いでいる人がいるという話を信じられるんだ」
ということを平気で言えるのかも知れない。
藤崎の小説は、今までにいくつかのパターンがあった。しかし、最近では一つにまとまりつつある。以前のように少しでも売れている時は、たくさんのパターンを書くことはできなかった。本人の中では、
「たくさんのジャンルを開拓しなければいけない」
という焦りにも似たものがあった。それが生き残りに繋がると思っていたからだ。
最初は小説を楽しみに書いていたはずなのに、最近では少しも楽しいとは思わない。ただ、以前と違って小説を書いている時は、完全に自分の世界に入り込んでいる。特にSF小説などを書いていると、俗世間が見えてこない方がいい。そう思うと、孤独もまた悪くはないと思うようになった。
ただ、そう思うようになるには、自分の感覚をマヒさせる必要があった。
「寂しい」
などという感覚は打ち消さなければいけないと思うようになっていた。
しかし、そう思えば思うほど、寂しさを感じずにはいられない。
寂しさが孤独になり、孤独が言い知れぬ不安となって襲ってくる。
「そうだ。俺が恐れていたのは、寂しさでも孤独でもない。不安だったんだ」
と感じるようになっていた。
寂しさや孤独は、どんなに膨れ上がっても、他に何か補えるものがあれば、解消できるものだ。しかし、一度感じた不安を払拭するには、他のことではだけなのだ。不安を感じた原因を見つけ出し、根本から解消するしかない。そう思った時、寂しさや孤独からやってくる不安に対しては、さほど怖さを感じることがなくなった。感覚がマヒしてきたように感じたのだ。
――寂しさや孤独を感じていたのは、いくつくらいまでだったのだろう?
藤崎は、思い返してみた。
二十代には完全に感じていたはずだ。
藤崎は二十代に一度結婚し、三十代の前半に離婚した。子供はいなかったが、離婚ということに直面した時、まるで他人事のように感じたのを覚えている。それまでの藤崎は、「離婚する夫婦ほど格好の悪いものはない」
と思っていたし、どちらにどんな理由があるにせよ、悪いのはどっちもだとさえ思っていた。
しかし、自分がその立場になると、話は別だった。
離婚を持ち出したのは藤崎からではない。奥さんの方から切り出したのだが、奥さんが切り出した時には、完全に決意が固まった後のことで、藤崎にはどうすることもできなかった。
「何で急にそんな離婚なんてことになるんだよ」
と藤崎はそれまで他人事だと思っていた離婚が急に目の前に現れたことにパニックになっていた。
ただ、それはもちろんのこと、最初に切り出された時は、何が起こったのか分かる前に、身体が震えだし、まるで引き付けを起こしたかのように、痙攣している自分の身体を感じた。
だが、冷静に考えてみると、痙攣してしまうほどに身体が反応したということは、自分の中のどこかに予感めいたことがあったということだろう。後から思えば確かに、
――俺は、最初から想像していたのかも知れない――
と思えた。
しかしそれは、自分の臆病から起こったことではないだろうか。