短編集15(過去作品)
「いや、俺にも分からないけど、君の想像する許容範囲であればいいんだがね」
友達はそれ以上のことを口にしなかった。「許容範囲」という言葉が、すべてを表しているのかも知れない。
私に浮気はできない。そのことは瑞江が一番よく知っているだろう。もちろん浮気などしたことはないが、タイプの女性を目で追いかけることくらいのことはあったに違いないだろう。男の本能として、瑞江の中でも「許容範囲内」なのだと思っている。
しかし恐れていたことが起こり始めていた。瑞江が私の「許容範囲」を超えたのか、私が瑞江の「許容範囲」を超えたのか、どちらが最初だったのかは分からない。しかし、瑞江が私を避け始めたのは間違いないことだった。
――何も言わなくても、お互いを分かり合える最高の仲――
だったはずの二人に亀裂が走ったのである。
だが、最初は避け始めていた瑞江も私と話をすることで心を開いていってくれたと思っていたのだが、そのうちに私を拘束しはじめたのだ。今まであれだけ何も言わずとも分かってくれていた彼女が、いちいち束縛し始めた。訳が分からない。
猜疑心が強くなったとでもいうのだろうか? 今まで気にしていなかった私の行動を逐一気にするようになったのだ。
「もちろん、今までと俺は変わってないさ。だけど、何であそこまで気にするんだろう?」
友達に相談したことがある。
「いやいや、あれが本当なのさ。今までほとんど瑞江さんは君に嫉妬したことなどないだろう?」
「ああ、だから安心して付き合って来れたんだ。俺が浮気なんてする男じゃないって分かっていてくれたからね」
「お前は本当にそう思っているのか? それは思い込みじゃないのか?」
言われてみればそうだ。一度も言葉にして、
「あなたは浮気なんてできっこないわね」
などと言われたことはなかった。私が考え込んでいると、
「な、そうだろう。女なんて嫉妬する動物なんだ。思い込みだけで付き合っているとひどい目にあうぞ」
まさしくその通りだった。
しばらくして瑞江の口から、今度は「結婚」の二文字が口から出始めた。もし、それが猜疑心のなかった頃の瑞江だったら私もその気になったかも知れない。
「卒業したら一緒になりましょう」
この言葉を思い出しただけで、背筋が寒くなる。
もちろん私にはまだ結婚の意志などない。ついこの前までの瑞江もそうだったに違いない。しかし、何かのきっかけで瑞江は結婚のことを真剣に考えるようになったのだろう。
私だって考えないわけではない。しかし時期というものがあるし、その時になって気持ちが変わらないとも限らないので、本当に真剣になるまで口が避けても言えないことだと思っている。瑞江もきっとそうに違いない。
それだけに私には余計怖いのだ。いつの間にか猜疑心が強くなっていった瑞江、そして今度は真剣に結婚を考えている瑞江、もう私が愛せる「許容範囲」を超えてしまった気がしていた。
かといって彼女は私を愛してくれている。この気持ちには変わりはないのだ。少し「愛情表現」が私の許容範囲を超えているだけで、本当は私には過ぎた女性なのかも知れない。その思いはずっとあった。
そんな時だったか、悠里と再会した。
大学の頃の友達と呑みに行ったスナック。そこで偶然再会した。最初は悠里の存在に気付かずに呑んでいたのだ。
「いい加減、結婚してやれよ。お前も嫌じゃないんだろう?」
「そうなんだが、時期ってものがある気がしてな。まだ少し早い気がするんだ」
その通りで結婚する気はあった。しかし今のまま結婚しても猜疑心をずっと持たれたままというのもきついものがある。社会人として立派にやっていける自信がついてからだと「安心」できると思っていることから、少し引き伸ばしている。
「お前の気持ちも分からなくもないが、そうやって焦らすことが余計に彼女を不安にさせるんじゃないか?」
「ああ、それはよく分かっているんだがな」
そうなのだ、だから余計に悩んでいる。彼女の気持ちを優先させることは、自らの気持ちに嘘をつくことになる。それは自分としては許せないのだ。いわゆる「ジレンマ」というやつだろう。
「こんにちは、お元気ですか?」
小声で、私の前に立っていた女の子が呟いた。年齢的には三十代前半というところだろうか?
「はい?」
思わず私も小声で答える。たぶん友達にはそんな二人の会話は分からなかっただろう。
途中、友達の携帯電話に連絡が入り、その連絡のために友達はしばらく中座して店の表に出て行った。話をするためだろう。
その間、私と悠里は二人きりになった。悠里はその時、私に薬を手渡してくれた。
「あなたにとって幸せなお薬ですよ、これはいつぞやのお礼です。あなたとあの時お会いできたおかげで、今の私があるのです。あの時はお恥ずかしいのですが、死のうとまで思ってましたのよ」
懐かしい顔だと思って見ていたが、それが悠里であると分かった時、不思議な気がした。あまり久しぶりな気がしないからである。定期的に会っているような、そう、まるで自分たちは付き合っているのではないかという錯覚さえあった。
しかしなぜすぐに思い出せなかったのだろう?
目の前に出された薬にも見覚えがある。
「真っ赤なカプセル」
それは時々自分で飲んでいたというそんな記憶なのだ。
「これはきっとあなたを苦しみから救ってくれるお薬です。相手があってのことならば、二人で一緒に飲んでください。少しだけ副作用がありますが、大したことはないです。あまりお気になさらなくて大丈夫ですよ」
そういって、しみじみと薬を見つめている。
「あなたはどうして私の前に現われたのですか? あまりにも偶然過ぎる気がするのですが?」
「副作用があると言いましたでしょう。私もずっとその薬を飲んでいますので、同じようにこの薬を欲する人が分かるのです。しかもあなたの場合は、以前私を救ってくれた」
分かったような分からないような話であるが、要するに私がこの薬を必要としていることが、いつも薬を飲んでいる彼女にはピンと来たということなのだろう。同じように以前薬を飲んだということは、彼女も誰か異性関係の問題に悩んでいたのだろうか?
「私の場合は深刻だったんですよ。相手が肉親だったから……」
そこまで言うと口をつぐんでしまった。私もこれ以上のことを聞いてはいけない気がする。
「あなたに会いたかった……」
そう言って涙目を真っ赤にしながら手で拭っている。まるで愛の告白をされているようで、気持ち悪さもあったが、まんざらではない。まるで悠里が私にとって「天使」に見えるのだ。
――見方によっては悪魔になるのでは?
という懸念もあったが、今の悠里に悪魔は想像できない。
「でも、今の私はあなたと一緒にいることはできないの。寂しいけど……。でも気をつけてくださいね。あなたが今付き合っている女性はとても猜疑心の強い人です。あの方も、今自分を抑えられなくなっています。私はあの人も一緒に救ってあげたい。このままいけばきっとあなたたちは泥沼よ」
「どういう意味だい?」
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次