短編集15(過去作品)
ステレオのリモコンを入れた部屋には、クラシックのゆったりしたメロディが流れてくる。重低音が部屋全体に響き、モノクロに立体感を与えている。部屋にはコーヒーの香ばしい香りが引き立ち、贅沢な気持ちにさせてくれる。
――なるほど、悠里のお嬢さまのような雰囲気はここから滲み出ているのかも知れない――
それにしても悠里のこの落ち着きはどこから来るのだろう?
私がいくら年下で、まだ世間を知らないとはいえ、明らかに私の知っている女性たちにはない落ち着きが滲み出ている。探ろうとまでは思わないが、気になって仕方がないのも事実である。
先ほどのキスが何だったのか、私は戸惑っていた。
「さあ、コーヒーを召し上がれ」
そう言って、トレーにコーヒーとケーキを乗せてきてくれた。ケーキはフルーツケーキのようで、
「このケーキ、私が作ったのよ。お口に合いますかしら」
そう言いながら微笑んでいる。その顔には屈託のない笑顔が浮かび、見つめられるとつい視線は唇へと向う。しかも前かがみになった時にワンピースの前から胸が覗いたが、どうやらノーブラのようで、目のやり場に困っていた。
顔は完全に紅潮していただろう。そのことを悟られたくなくて戸惑いはさらに大きくなった。
確かに顔を見つめていると、目は唇に向ってしまう。しかし、なるべく目を見ようと思っている。どうしても悠里の落ち着きや余裕、そしてお嬢さまとしての資質の正体を知りたくて仕方がなくなっていたからだ。
「私ね、すぐに人を信じてしまうタイプの女性なの」
女性にはどうしてもそういうところがあるだろう。特に悠里のようにお嬢さまタイプの女性からそう言われると、すぐに納得してしまう。私が二度、三度と頷くと、苦笑いをしながら、
「見ていて分かるでしょう? そんなこともあって、何度か男の人に騙されたこともあるの。うまく利用されたというのか、二股かけられていたこともあれば、金銭的なことで騙されたこともあるわ」
そう言って、少し考え込んでいる。
考え込んでいる悠里も、悠里なのだと思うと少し不思議だった。私にキスをしてきた悠里とも違うが、気持ちに憎らしいだけの余裕を感じていた悠里が見せる落ち込んだ顔、信じられなくもあった。しかし、すぐに冷静さを取り戻すと、
「あ、ごめんなさい。初めてのあなたに話すことではなかったわね。きっとあなたをずっと前から知っていたような気がするからなのかな? こんな話ができるのは……」
思わず「ドキリ」としてしまった。先ほど重ねた唇と同じ口から出てきた言葉に私はまたしても顔が紅潮している。今日何度紅潮することだろう。
悠里から薦められたコーヒーとケーキは美味しかった。特にケーキなどはシナモンが利いているのか、あまり食べたことのないような味が返って新鮮だった。甘さだけを追及するケーキが多い中、今でこそ珍しくないが、味を噛み締めながら悠里の顔を見つめていた。
「いやぁね、私の顔に何か着いているかしら?」
あまり見つめるもので、恥ずかしがっているようである。しかしその恥ずかしがり方に大人の女の色香を感じ、見つめる私が恥ずかしかった。
「お口に合いますかしら?」
「ええ、とっても美味しいです。これはシナモンが利いているんですか?」
「ええ、シナモンに、少し他のスパイスも加えてみましたの。私オリジナルのケーキですわ。一度お友達に食べていただいたんですけど、男性に食べていただくのは初めてなんです」
「それはそれは、光栄です」
美味しそうにフォークを口に運ぶ私を垣間見るように見つめられると、恥ずかしさだけではない何かを感じる。その表情には恐る恐るの表情が窺え、不思議な気持ちになった。
私が食べている間、悠里は私の顔を覗き込むだけで、会話をしようとしない。
何となく目のやり場に困った私はゆっくりと部屋の中を見渡していた。少し大きめのワイドテレビがリビングの隅に置いてあり、その下のケースにはビデオデッキと、いくつかのビデオテープが置かれている。ラベルを見ると、どうやら某国営放送の教育テレビでやっている番組をシリーズで録画してあるようだ。下の方に通し番号のように丸で囲まれた番号がある。
その番組とはバイオ関係と、心理学関係の番組が主で、彼女が何かの研究をしているのではないかと想像させるに十分な量のビデオだった。
テレビの横にはグラスカウンターがあり、中にはワイングラスや、コーヒーカップがところ狭しと並べられ、奥にはワインが何本か置いてあった。
私の視線が止まったのはカウンターの中ではなかった。カウンターの上にあるもので、それほど大きくないのだが、他に何も置いていないことから目立ったのである。
照明がちゅうど反射したのかも知れない。私の視線がそこに釘付けになるのを察してか、
「ああ、これ? これはもう二年前のものよ」
そこにあるのは写真立てであった。写っているのは、悠里と一人の男性、身体を摺り寄せるように楽しそうに写っているその姿は、見るからにアベックそのものだった。
少し不思議な感覚に襲われていた。目の前にいる悠里に違いないのだが、同じ人物とはどうしても思えない。むしろ一緒に写っている人が何となく私に似ているような気がしてくるくらいである。年齢的にはすでに二十代後半くらいだろう。サラリーマンとしてみるならば、一番スーツの似合いそうな年代に見える。
もちろん、写真はラフないでたちで、真っ赤なセーターが目を引いた。私もどちらかというと真っ赤が好きで、よく真っ赤なセーターを着ることがあるが、それは目立ちたいとかいう思いよりも単純に真っ赤が好きなだけである。不思議なことに、次第にこれが自分の十年後であるかのような錯覚に陥っていく自分を感じていた。
「おや?」
「どうしたの?」
私が思わず出した言葉に、気になったかのように聞いてくる悠里だったが、どうもその声はそれほど私の言葉が意外ではなかったことを示しているように思える。びっくりしたというよりも、予期していたかのようで、私が次にいう言葉も最初から分かっていたのではないかと思えるほどだった。
「なんか身体が熱いんですよ」
「頬がポカポカするみたいに?」
「ええ、まさかアルコールなんて入ってませんよね?」
「入れてないわよ、アルコールの味がした?」
ビールや水割りなら、以前父が呑んでいるのを少し貰って呑んだことがある。もう、高校生なんだから、隠れてみんなで飲んだりしている連中もいるだろうが、私はあまりそんなことはしたくなかった。まだ、アルコールを美味しいと感じる年齢ではないことは分かっているし、美味しくないものを好んで呑む気にもなれないからだ。
「確かにアルコールの味はしないですね。アルコールの味なんて分からないし、分かってもきっと美味しくないと感じると思うんです。アルコールはアルコールだけで呑む方が美味しいですよね?」
「私もそう思うわ。洋酒入りのケーキなどあるけど、私はいつもケーキはケーキで食べたいと思っている方なのね」
「僕と同じですね。でも、このケーキはとても美味しいです。だからこれにアルコールが入っているなんて信じられません」
「ありがとう。そう言っていただけると嬉しいわ」
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次