短編集15(過去作品)
肩よりも長いストレートに伸びた髪からは、ほのかな香水の香りがしてきそうである。しかも風呂場という湿った空気の中で覚醒しそうなその香りは、柑橘系のものだと信じて疑わない。
「里美」
声になったかどうか分からない。驚きのまま、その場から視線を逸らすことができなかったが、それがどれほどの時間のものかなど、見当もつかなかった。
思わず口から出てしまった里美という名前、私が学生時代に付き合った女性である。大学に入学して一番最初に付き合った女性、それが里美だった。
それまでにも高校時代などもクラスメイトと付き合ったりしたことはあったが、それはあくまでガールフレンド、恋人というところまでは行かなかった。私が、というより、相手がまだ高校生だということに抵抗感があったのかも知れない。
付き合っている女性に無理なことはさせない。
これが私のポリシーでもあり、それが分かっているから、女性は私と付き合ってくれるのだろうと感じていたのだ。
「琢磨くんは安心できるのよ」
高校生とはいえ、もう身体は立派な大人である。思春期真っ只中で、しかも大人の情報は、知りたくないことまで友達からなどから入ってくる。そんな中、誘惑に負けそうなことも何度かあったが、それを抑えることのできる人ということで周りから一旦見られてしまうと、行動範囲は狭められてしまう。
高校時代が自分にとって暗い時代だったと思うのは、そんな欲望をひた隠しにしていたことで、本当の自分までも押し殺していたと思ったからだ。
そんな思いが解放されたのは大学入学と同時だった。何よりも嬉しかったのが、高校時代の私を知る人が少ないということだった。
――ここで思い切って自分を変えてやる――
はっきりとそこまで考えての入学だった。暗い時代とはもうオサラバしたかった。
積極的に話しかけ、どんどん友達を作っていく。その友達からさらに輪が広がっていくのはとても楽しいことだった。女性にも積極的に声を掛ける。講義室で隣り合わせになったのをいいことにお友達になる。高校時代までには考えられなかったことだ。キャンパスという雰囲気がそうさせるのだろう。
「やつは軽いやつだ」
と、そのうち陰口を叩いている連中がいるのも知っていた。確かに軽い性格で、ずうずうしさもあったかも知れない。しかし私はそれでも満足していた。それがキャンパスライフとでも思っていたからだ。
一年生の間はそれでも結構いろいろなところに顔を出し、合コンなどにもよく誘われた。性格的に仕切る方ではない私はもっぱらの頭数に過ぎなかったが、数はかなりこなしていただろう。
それなりに仲良くなって交際を始めた人もいた。最初の高感度は、自分でもなかなかなものだと思っている。これも大学入学とともに友達を増やしてきたおかげだと思っていたが、付き合っていくうちに相手から別れ話を持ちかけられることが多くなった。
「最初に思っていたような感じの人と違うみたい」
これが理由であるが、露骨に言う人もいた。それも付き合い始めて大体三ヶ月目くらいというところだろうか。そろそろお互いのことが分かってきて、いよいよ本気になりかける頃に差し掛かっている頃のことである。男としてはショックなのだ。相手から全幅の信頼を受け、「よい交際」であったはずのものが、ある時を境にして瓦礫が崩れていくのである。
何度も同じことを繰り返していた。
――自分に悪いところはないのか――
とも考えるが、考えれば考えるほど袋小路に入ってしまい、分からない。それまでの交際が順調すぎるくらい順調に見えたからだ。喧嘩どころか、ゆっくりとお互いを知ろうとしていた矢先のことに、言葉も出ない。
そんな時に知り合ったのが里美だった。
里美はOLをしていて、田舎の高校を出て、卒業後就職で都会に出てきたらしい。あ、あり友達もいないということだが、なぜかそれも納得できた。スナックでアルバイトしたこともあるらしく、それはかなり後になって本人から聞かされたのだ。
里美に最初に感じたのは、
――今までの人にはない、大人のオンナの魅力を持った人だ――
ということだった。
友達の紹介だったのだが、その魅力の正体はすぐに分かった。
紹介してくれた友達、実はあまり親しくない奴だった。彼は女性からも人気があり、男の我々から見ても、モテるタイプに思えるくらいのイケメンだった。
最初、里美は私に対して極度な緊張感を持っていたようだ。こちらから話しかけたことには答えるが、決して自分から話そうとはしない。今まで付き合ってきた女性にない雰囲気があり、さすがに最初は戸惑ってしまった。
――本当に私の話をまともに聞いているのかな?
そんな風にも思える。
しかしすぐあとに聞いた話で半分納得した。半分というのは、態度に対する納得であって、自分自身の中で消化できるものではなかったことでの「半分」なのだ。
どうやら里美は私を紹介してくれた友達の「元彼女」らしい。友達は女性との付き合い方がうまいというか、その時々で誰かと付き合っているとしても、誰と付き合っているかを決して表に出さないタイプなのだ。それだけに、まわりも彼には関わろうとする男はいないのだと聞かされた。
しかし行動パターンとしては、自分の付き合っていた女性を他の友達に紹介するということを繰り返しているらしく、それを聞いた時に怒りというよりも、呆れたといった方がよかっただろう。あまりにも自分の常識からかけ離れた考え方だからである。
しかし、その時はそうも言ってられない。自分がその渦中の人になってしまったからである。どんな表現をしても、
――女を押し付けられた――
という事実には違いないのだ。
だからといって里美に対する想いは変わらなかった。里美は従順な女性である。きっとその友達に対しても従順だったのだろう。それだけに、男としては鬱陶しく感じることもあるだろう。特にやつのように女性を手玉にとっているような輩には、潮時はすぐに見えたのかも知れない。
里美は私にとってかけがえのない女性であった。従順だということが、これほど素晴らしいというのを教えてくれたのは里美だった。初体験の相手も里美だった。ベッドの中でリードしてくれながら、男としての自尊心を傷つけてはいけないという思いが、しっかりと滲み出ている。
「愛してるわ。私をずっと愛して」
「もちろんさ、君は最高だよ」
あまり行為の最中に会話はない。私としては何をどう話していいか分からなかったのだが、私が彼女を貫いてから果てるまでの間、里美は「ずっと愛して」という言葉を言い続けた。
きっと私の今までの人生の中で、その時々に思い入れがあるだろう。あの時の里美の言葉は、その中でも忘れることのできないものであった。
私は従順な里美に次第に惹かれていく。里美もそうだったと思っていた。きっとうまく行く仲だろうと思って疑わなかったのだ。
私に隙があったのだろうか。
ある日私は親友と呑みに行き、そこで二人の女性と知り合った。もちろん、軽いノリの女性たちだったので、楽しい会話ができればいいというくらいのものだった。
「君たち、なかなか楽しいね」
親友はすっかり上機嫌である。
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次