短編集15(過去作品)
部屋へと向う通路では、音が篭って聞こえてくる。そのためだろうか、乾いた音の響きは格別で、金属音に近いものを感じる。特に女性のハイヒールなどの甲高い音は、耳に響いて当分離れないかも知れない。
――まさか――
そう思いながら振り向いてみるが、もちろん、音がしないので、誰も追いかけてくるはずもない。しかし、気配だけは感じるのだ。
――誰かが私を後ろから見つめている――
痛いほどの視線が気のせいだとは、どうしても思えなかった。
私の部屋は正面玄関を抜けてから、一番奥の部屋になる。部屋番号は一○五号室、四つ目の部屋である。
ここも他のマンションと同じで、「4」という数字を嫌がる。そのため一○三号室の次が私の部屋である一○五号室になるのだ。
それにしてもこれほど部屋までが遠いと感じたことも久しぶりである。いくら疲れて帰ってくる日々が続いているとはいえ、足が棒のように重たい時であっても、部屋が見えてくると、幾分か足を軽く感じることができる。
――安心感――
そうだ、安心感が違うからかも知れない。ここまで来れば帰りついたも同然だという安心感に包まれると、何歩で部屋の前まで来れるかを知り尽くしているほど毎日歩いていること、それだけでも全然違う。
しかし、その日は違っていた。部屋の扉を目指して歩いているつもりでも、いつまで経ってもたどり着けないような錯覚にさえ陥っていた。
「くそっ、さっきの影が尾を引いているんだ」
そう思うと恨めしい思いと、影に気付いてしまった自分に対していまいましさが募った。
もし、あの影に気付きさえしなければ、こんな気分にならなかった。気持ちよく帰り着いて、女房の驚く顔を見て、してやったりの笑みを浮かべるはずだったのである。無事に帰りついたとしても、気持ちがすぐに晴れるとは思えない。とにかく早く忘れてしまうことだと思うことにした。
「ただいま」
扉を勢いよく開け、まるで虚勢を張ったかのように大声で叫んだ。
「はぁい」
奥から糸を引くようで消え入りそうな声が聞こえた。元々大きな声を出す方ではない女房の和代の、いつもの声に違いなかった。
奥からエプロン姿で現われた和代のその姿を見るのは、いつ以来だっただろう。新婚当初でまだ仕事がそれほど忙しくなかった頃に以来かも知れない。
「あら、随分お早いのね」
そういって笑みを浮かべる顔に屈託などなかった。もう少し驚いた顔をするかと期待していた私は少々、拍子抜けしていた。
「うん、今日は早く帰れた」
本当は呑みに行く相手がいなかっただけなのだが、そんなことを口に出せるわけもなく、また、
「君の喜ぶ顔が見たかった」
などと歯の浮くセリフも照れ臭くて似合うはずもない。
「あら、珍しいわね」
さすがに目敏い和代は、私の手に握られているケーキの箱を見つけた。大の男が小さなケーキの箱を持っているのだから目立たないわけもない。正直言えば、歩いてくる道すがら、恥ずかしいという思いもあったのだ。そんな思いも、忌まわしい影によって打ち消されたのだが……。
ケーキは確か和代は好きだったはず。
家に帰り着いて和代の顔を見て、初めて思い出した。
「和代、お前ケーキが好きだっただろう」
「ええ、覚えてくれていたの?」
いかにも嬉しそうである。
「ああ」
そうは言ったが、実は後から付け加えたおまけのような返事だった。
「今、お食事作りますから、お風呂先に済ませちゃってくださいな」
女とは実に単純なもので、声が心なしか弾んでいるのが分かった。
「ああ、そうする」
本当はもっと話したいという思いもあったのだが、汗を流して、食卓でゆっくりすればいいことだ。今日は普段と違いそれだけの時間は十分にある。
しかし私は性格的にせわしい方なのかも知れない。
いくら時間があるとはいえ、あまりゆっくりした気分でいるとすぐに終わってしまうという不安を持っている。きっと気が緩むと必要以上に心身ともに砕けてしまって、眠くなってしまうという危惧があるのかも知れない。緊張感だけは、なるべく保っていなければならないだろう。
家でこんな時間に風呂に入るのは本当に久しぶりだ。洗面器の乾いた音を聞くと、さらに心地よい暖かさを感じることができる。
いつもであれば近所の手前、あまり大きな音も立てられず、シャワーの音も遠慮気味だった。しかし、さすがにこの時間、身体に打つつけるお湯を感じながら入れることへの満足感があるのだ。
「お湯加減いかかですか?」
「ああ、なかなかいいよ」
元々あまり熱い湯に浸かるのが苦手な和代は、いつも温めにしている。私はそれを承知していたので、最初にかき回し、お湯加減を確かめてから、さらに湯を足した。こういう嘘は、「方便」の類となるだろう。
身体にいっぱいについたボディソープを勢いよくシャワーで流し出す。身体も温まり、湯船に浸かる瞬間、これが一番気持ちいい時間帯であった。
「ザザーッ」
勢いよく浴槽から流れ出るお湯、この音も乾いた洗面器の音とともに、いかにも風呂場を思わせる音で、私は好きだ。気がつけば両手でお湯をすくって、そのまま顔を洗い流している。
「ふぅ」
溜息の漏れる瞬間でもあった。
半開きになった窓から見える月に湯気がかかって、
「月見湯とは、何とも贅沢なものだ」
と一人ごちていた。影が月明かりに掛かり、「ウサギが餅をついている」という伝説が今なら信じられる、そんな雰囲気だった。
風があるのか、湯気が勢い翼流れているようで、月にかかった影が、都度変化していろいろなものに見えてきる。
――飛行機、犬……
しかしあまりにもあっという間の出来事なので、集中していないと見逃しそうだ。
一瞬吹いてきた突風に気を取られ、目を逸らしてしまった。そして再度窓の外の月を見ようとした時である。
「おや?」
何かがこちらを見ている。先ほどの月明かりがもたらす幻想的な影絵ではないかと思ったが、そんなメルヘンチックなものではない。そこには一瞬であったが、なにやら嫌らしさを含んでほくそえんでいる人物のシルエットが浮かび上がった気がした。ここは表から見えないようにかなり高いところにある窓なので、少々大きな人物であっても、簡単に覗けないようになっている。
「それにしても」
思わず口に出して不思議に感じたのは、その人物の顔を思ったより小さく感じたからだ。シルエットになっているのだから、想像しているより大きな顔になるだろうという最初からの思い込みがあったのだろうか。小さな顔の輪郭に思えて仕方がない。
しかし現われたところをよく見てみると、もう一度輪郭が浮かび上がってくるのが見えて仕方がない。しかも驚いたのは、その輪郭に覚えがあったからだ。
「まさか、そんなことが」
湯をかきまわすようにして声が聞こえないように呟いた。声が出るかどうか自分に不安があったからである。それだけ驚愕していたのだ。
明らかにその輪郭は女性であった。輪郭が小さすぎるだけが原因ではない。一番の原因は、先ほど吹いてきた突風に煽られるように靡いていた後ろ髪のその長さにある。
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次