短編集15(過去作品)
少し年配風の女性の罵声に近い声だった。息遣いというよりも鼻息の荒さは完全に怒りに満ちているのだろう。そしてその罵声を浴びせられている女性はまだ若い女性で、たぶん私と同じくらいの二十代後半といったところだろうか。可愛そうに、完全に萎縮してしまっていて、息遣いはおろか、心臓の鼓動まで聞こえそうだ、肩が震えながら小刻みに揺れているのが、遠巻きながら見て取れる。
さすがに最初に興奮して罵声を飛ばした年配の女性も、まわりが一斉に振り返ったのには気付いたようだ。実にバツが悪そうに首をすくめ、まわりを見ている。そして、鋭い視線を目の前の女性に向けた。
――私がこんなに恥を掻かなければならないのは、あなたのせいよ――
と言わんばかりの鋭い視線を集中させている。
若い女性は完全に怯えきっている。どう見てもかわいそうだ。
今度は、年配の女性が身を乗り出すようにして小声で捲し立てている。もう、その声は聞き取ることはできない。
涙が出ているのかどうかまでは分からないが、耳たぶまで真っ赤にして罵声に耐えている様子はいかにも痛々しく、まともに相手の顔を見れず、横から見ていてうな垂れているその目が潤んでいるのが、いとおしく見えていたりした。
――どうやら不倫でもしているのかも知れない――
これはあくまで私の想像なのだが、まったく若い女性が言い返すことができないこと、それでも、何とか耐えることができているのは、不倫相手の男性のことを考えているからではないだろうか?
不倫経験のない私だったが、今の私なら、不倫くらい別に大したことではないような気がする。それだけ恋愛に対して、感覚が麻痺しているのではないかと思い、一抹の寂しさを感じていた。
彼女の横顔は美しかった。きっと、罵声に耐えるために好きな人のことを思い浮かべているからに違いないと思った。
――好きな人のことを考えていれば、少々辛いことでも耐えられる――
彼女の目がそう訴えているように見える。
相手と目を合わそうとしないのも、それが理由かも知れない。罵声を浴びせられながらでも、他のことを考えている。ましてそれが渦中の男性ということになれば、年配の女性からすれば、これほど憎らしいこともないはずだからである。
相手が塞ぎこんで反省しているとでも思っているのか、年配の女性はさらに捲し立てている。それは、まるで勝ち誇ったかのようで、その表情には、完全な優越感が感じられ、
「ざまあみろ」
という気持ちがありありだが、それも一瞬に過ぎないだろう。今しか知らないが、相当嫉妬深い女性であるのは間違いないようだ。
――それにしても、若い方の女性が次第にきれいに見えてくる――
いや、綺麗に見えるだけではなく、妖艶にさえ見えてくるのだ。最初はかわいそうだと思っていたのだが、その妖艶な雰囲気から、だんだんとイメージが変わって見えてくるのが少し怖かった。
――自分にこんな一面があるなんて――
初めて感じたことではない気がするのが不思議だった。
――高校生くらいの頃――
そう、多感だった高校時代、何事にも好奇心旺盛で、それまで奥手だった私が急に好奇心に目覚めた時期でもあった。
それまでの反動だろうか? 特に女性に対しての見方が、かなり変わってきていた。
時たま、女性を見て淫らな想像をしてしまう自分に多少の嫌悪感を感じていたが、それも頻繁ではないので、それほど意識はしていなかったのだ。
初めにそんな妄想を抱いたのは、教育実習の先生だったかも知れない。
クラスの女の子で好きな子がいなかったわけではないが、毎日同世代の女の子ばかり見ていて、肉体的にも大人に変わりかけている一人の男子生徒には、教育実習の女子大生は眩しすぎた。
淡いグリーンの薄手のビジネススーツ。スレンダーな身体にフィットして見えてくるのは、胸やお尻の弾力性のありそうな膨らみだった。座っていて見るには程よい位置にあることから視線を逸らすことができなくなってしまった。気がつけば、私以外の男子生徒も皆同じ視線をしていて、
――負けてたまるか――
などと、何の根拠のない張り合いを心の中で演じていたような気がする。
それも楽しかった。
しかし、目の前にあって手を伸ばせば触れることができるにもかかわらず、それができないことへの憤りがあったのも事実だ。それが次第に大きくなり、その気持ちが「恋」ではないかという、偽った気持ちに変わりかけてもいた。
それを制する気持ちが、まだその頃の多感な成長途上の私にあるはずもなく、ニキビ面を真っ赤にしながら欲望に耐え、「恋」という美しいものだと錯覚することで耐えられると思っていたのだった。
しかし精神的にはそれでも、肉体的な自分が精神的な自分を追い詰める。次第にそれが妄想という形になり、女性が自分に対し従順なものであるという錯覚を引き起こしていた。
そんな気持ちがいつくらいまで続いたであろうか?
しかし、大学に入ってできた初めてのガールフレンドから、そんな私の妄想へきをズバリ指摘され、まるで変態呼ばわりされるかのような罵声を浴びたことがあった。
その時に不思議とショックはなかった。好きになりかかった女性を諦めることになるのは辛かったが、罵声を浴びたことにはそれほどのショックがなかったのである。
不思議だった。さすがに最初は顔が真っ赤に熱くなった記憶があるが、それが次第に冷めてくるにしたがって、自分の中の感覚ではないようだったのだ。
――まるで他人事――
と、そこまで考えていた。
自分の気持ちが麻痺してくると、妄想は留まるところを知らない。
その歳まで女性の身体というものを知らずに、思春期を過ごしてきたのだから、それも仕方のないことかも知れないが、それにしても、これほど自分の妄想が激しいとは思わなかった。
目の前でブランコに乗っている女性、とても寂しそうな表情だ。
それは太陽を背にしているから分かるのかも知れない。太陽の光を浴びていると、きっと楽しそうな顔になっているのではないかと思えるのが不思議だった。
――一体、この時間に一人で何をしているのだろう?
妄想へきが顔を出した気がしてきた。
エプロン姿がよく似合う女性、主婦に違いない。
子供が一人くらいいてもおかしくなさそうだ。だが、彼女に子供の翳を感じることができない。
寂しそうなその顔、一瞬かも知れないその顔は、好きな人に会えない哀愁のように感じた。しかし、楽しそうな顔も見え隠れする、そこには逆に好きな人の存在を窺わせる。
――不倫?
私の考えに間違いないような気がする。寂しそうなその顔から、抱きしめたくなるような衝動に駆られる自分を必死で抑えていた。そして楽しそうなその顔が私以外の男性に寄せられることへの一瞬の嫉妬を感じるのだ。
私とは何の関係もない女性なのだ。しかし、それでも何かを感じるということは、彼女に似た人を以前から知っているということの裏づけではないだろうか?
待ち合わせの場所に意気揚々と現れる彼女、そこにはまだ男は来ていない。次第に悲しそうな顔が見え隠れするようになるのは、やはり不倫という後ろめたさか、それとも、彼の顔を見るまでは不安なのか……。
作品名:短編集15(過去作品) 作家名:森本晃次