新しい世界への輪廻
夕方からのアルバイトで、デパートには午後五時くらいについた。午後八時までの営業時間だったので、二時間近くはデパートの雰囲気を味わなければいけない。
最初は懐かしさなど微塵もなかったのだが、閉店時間の午後八時が近づいてくると、店内には閉店の音楽が流れていた。
それは、私が小学生の頃と変わっていなかった。
――何となく寂しく感じられる音色――
そのイメージだけが残っていたのだが、改めて聞いていると、懐かしさの方が強く感じられた。
ボーっとしていたのだろう。
「そこ、ボーっとしないで作業してください」
と、設営会社の社員から注意を受けた。
「あ、すみません」
まさか、嫌いだったデパートの、しかも、閉店の音楽という寂しいはずの音色から、懐かしさを感じるなんて、自分でも信じられなかった。
ただ、その時の設営をした時の思い出を思い出したというのは、本当に偶然だったのだろうか。そのことを、すぐに私は感じることになる。
展示会場の設営をしている時、急にお腹がすいてきた。
――オムライスが食べたいな――
やはりこのデパートのオムライスを食べてみたかった。
しかし、その日は閉店してしまったので、別の日に来てみると、すでに子供の頃にあった大衆食堂はなくなっていて、オムライスなど、どこを探してもなかったのだ。
――いや、他のオムライスを食べたいわけではないんだ――
私が食べたいのはこのお店のオムライス。たぶん他のお店にオムライスがあったとしても、それを食べたいとは思わないに違いない。
実際に、最近ではオムライスの専門店のようなものがあるが、
――オムライス好きの自分としては、一度は行ってみたい――
と思い、店に入った。
メニューを見て愕然とした。
いろいろ珍しい種類のオムライスがたくさんメニューに並んでいる。今で言えば、
――インスタ映え――
のするような色とりどりのメニューだった。
しかし、自分の所望しているのはスタンダードなオムライスである。
「すみません。昔ながらのオムライスってありますか?」
と店員に聞いてみると、店員はすぐにメニューを取って、
「これですね」
と言って、ページを開いて示してくれたが、最初に訝しそうな目で私を見たのを見逃すことはなかった。
「じゃあ、これください」
時間的には少し他のオムライスを頼むよりも時間が掛かったようだ。
――こんなものを頼む人なんて、誰もいないんでしょうね――
と感じた。
とりあえずメニューには載せておいたが、頼む人などいないという考えから、他の料理のように、大量に作っておくようなことはしていなかっただろうから、一から作ったに違いない。
食べてみると、さらに愕然。
――なんだ、これは――
記憶にある味とはまったく違っていた。
子供の頃に食べたものなので、身体が完全に記憶できていなかったのか。それとも、大人になるにつれて舌が肥えてきたことで、おいしいものというものに対して感覚がマヒしてきていたのか、
――食べるんじゃなかった――
と感じさせるほどだった。
子供の頃に食べておいしかったものは、オムライスに限らず、その味を再度味わうことができなかった。思い出は思い出として残るしかないのだと、私はその時に感じたのだった。
氷室が連れていってくれるという喫茶店も、以前は近くの工場の工員相手の食堂だったというではないか。きっと私が食べたのと同じ感覚になれる料理が、一人にひとつは少なくともあったに違いない。工場がなくなってから食堂が喫茶店に変わったというのも、時代を反映しているからなのか、時系列というものが本当に正確に時を刻んでいるものなのか、疑問に感じてしまっていた。
そんなことを考えながら歩いていると、時間を忘れてしまいそうになっていた。
「少し歩かせてすみませんでしたが、そこを曲がると目的の喫茶店があります」
と言われ、少し歩いたと言われても、いろいろなことを考えながら歩いていたので、どれほどの少しなのか分からなかった。それを思うと思わず吹き出してしまいそうになるのだった。
彼の後ろをついていくように角を曲がると、なるほど、確かに喫茶店の佇まいが目の前に飛び込んできた。チェーン店になったカフェが多い今の時代に、昔ながらの純喫茶が残っているのを見ると、なぜかほほえましい気分になった。
――目の前に懐かしいオムライスを置かれたような気分だわ――
と感じたが、またしても思い出したのは、オムライス専門店だった。
見た目は昔なつかしのオムライスなのだが、実際に食べてみると、味はまったく違っていた。
――昔のレシピが残っていないということなのか?
と考えたが、そもそも人気メニューばかりが売れるチェーン店。昔ながらのオムライスを注文する人などいるのだろうか? 私のような客を相手にするほど、チェーン店は暇ではないのだろう。
――でも、クレーマーだったらどうするんだろう?
チェーン店なので、それなりの接客マニュアルくらいは用意してあるはずだ。
「お客様一人ひとりのお好みに合わせてお作りしておりませんので、そのあたりはご了承ください」
とでもいうのだろう。
それが一番ありがちな回答のように思える。マニュアルというのは、相手をなるべく怒らせないように、自分たちの正当性を説得しようとするものだろう。そういわれてしまうと、クレーマーとすれば、あとは強引に無理を押し通すしかなくなるだろう。そうなると、店側の勝ちなのではないだろうか。
喫茶店が近づいてくるにつれて、次第にくたびれた様子が見て取れた。お世辞にも女性をデートに誘って、相手が喜ぶようなところには見えない。彼は何を思って、私をこの店に誘ったというのだろう。
くたびれた様子に見えたのは、建物の造りが木造に見えたからだ。実際に木造ではないのだろうが、木目調の雰囲気に、まるで蔦でも絡んでいるような雰囲気に、
――昭和のよき時代――
を思わせた。
平成生まれの私に、昭和のよき時代と言われても、そんなイメージが頭に浮かんでくるはずもない。それでも、写真で見たり、CDジャケットなどで、昔の雰囲気を見たりしたことはあったので、喫茶店の外装に、嫌な気分はなかった。
「ガランガラン」
氷室が扉を開けると、鈍い鈴の根が響いた。
「まるで、アルプスの羊飼いのようだわ」
というと、
「アルプスの少女を思い浮かべましたね? ほとんどの人はそれを思い浮かべるらしいんですよ。でも、僕は少し違いましてね。僕には小学生の頃に行った、神戸にある六甲山が思い浮かんだんですよ」
「えっ、神戸ですか?」
「ええ、あそこには、高山植物園があって、温室のようなものもいくつかある。朝にはいつももやがかかっているようなイメージがあって、ほとんどの音が籠もって聞こえるんですよ。だから、ここの鈍い鈴の音も、湿気を帯びた空気の中に佇んでいる雰囲気を感じさせます」
と言った。
神戸というと、小学生の頃、仲の良かった友達が引っ越していったところだった。あれは小学五年生の頃だったが、もうすぐ中学生になるのだという意識を持ち始めた頃だった。