新しい世界への輪廻
「それは本人が決めることなんじゃないでしょうか? 記憶が戻ったからと言って、記憶を失ってからの一から積み重ねた記憶が消えるわけではない。私だったら、記憶を失う前の生活に戻らずに、今までの生活を続けると思います」
「記憶を失う前にその人に関わっていた人にとってはショックでしょうね。もし婚約者などがいた場合、どんな気分になるんでしょうね?」
「たぶん、婚約者もそれはショックだと思いますよ。でも、記憶を失う前の生活に戻ったとしても、そこにいるのは自分の知っているその人ではないとそのうちに気づくのではないかと思うんです。だって、少なくとも空白の期間があって、その間には別の人が絡んでいるわけなので、元の生活に戻るなどということは土台無理なことではないかと思うんですよ」
「そうですね。私はそれは思います。でも、記憶を失ってからの生活にも同じことが言えるんじゃないでしょうか? 前の記憶が戻ったのだから、前の記憶の楽しかったことを思い出すと、同じ生活ができるとは限らない」
「でも、記憶を失っている人と付き合っている人は、その人が記憶がない時を知っているわけなので、それまでに付き合っていた人とは覚悟が違うはずですよね。それに記憶を失う前に一緒にいた人は、記憶を失ったその人を知らない。元のままのその人だと無意識に感じながら付き合っていくことになる。そこで二人の間に生じた溝が、次第に広がっていくかも知れませんからね」
「そうですね。でも、あなたの意見は当人がどうのというよりも、まわりから見たことが中心になっていますよね。それは無理もないことなんじゃないかって思うんですが、果たしてそれでいいんでしょうか?」
私はそう言いながら、自分でもいろいろ考えていた。
元々記憶喪失の失くしたはずの記憶が、自分の中で「新しい世界」を形成しているという話をしていたはずなのに、本来の記憶喪失の話に終始してしまっていたからだ。話の途中で、
――何となく戸惑いを感じるわ――
と思っていたが、話が次第に逸れていくことが次第に意識の中で薄れていくことへの戸惑いだったのかも知れない。
私は記憶喪失について、たまに意識していたように思う。
――ひょっとして私の記憶は、すべてに間違いはないんだろうか?
つまりは、何かの記憶が欠如していることで、違った記憶に変化していないかということだった。
記憶も時系列に並べることで歯車のように噛み合っているように思う。一つの記憶を思い出すことで、どんどんその前後の記憶もよみがえってくる。それはまさしく歯車の力によるものではないかという考え方だった。
先ほど、自分の記憶や意識が放射状に延びていると言いましたが、その放射状こそ、
――意識や記憶を繋ぎとめておくための歯車――
と言えるのではないだろうか。
歯車が一つでも狂えば、記憶は堂々巡りを繰り返し、意識的に封印してしまうことだってあるかも知れない。意識がそのまま記憶されるとは限らないということも、私の気持ちとしては持っていたのである。
「私の次の意識としては、『他人の記憶』というものなんです」
と私がいうと、
「えっ、それはどういうものなんです? 他人の記憶が自分の頭の中にあって、人と共有しているという意味なんですか?」
「私は共有という意識までは持っていませんでした。あくまでも、自分の中に他人の記憶が入ってくるという意味で、その人がそれを人の記憶だと理解しているかどうかも分からないと思っているんです」
「あなたは、誰かそんな人を知っているんですか?」
「ええ、中学生の頃のことなんですが、そんな話をしている人がそばにいたのを覚えているんです。どこかの喫茶店だったような気がするんですが、環境の記憶よりもその話の記憶の方が強かったんですね。それほど私にはセンセーショナルな話だったように思います」
「その人はどんな話をしていたんですか?」
「確か若い男女の話だったと思います。恋人同士だと思っていましたが、今思い出してみるとどこか秘密めいたところがあり、ひょっとすると不倫カップルだったんじゃないかって思います。話の内容は明らかに不倫のような話だったんですが、自分たちの話を公共の場所でするなんて信じられないと思っていたから、まさか自分たちの話だとは思ってもみませんでした。でも、今だったら言えます。あの話は自分たちが当事者でなければ分からないことが結構あったんだってですね」
「それはきっと、中学時代のあなたにとって、会話の中の世界は別世界のように思えていたことで、他人事のように聞いていたからなのかも知れませんね。それだけウブで純粋だったんだけども、好奇心はそれ以上だったということなんじゃないですか?」
どうにも見透かされているようで、少したじろいでしまった。
「なかなか鋭いですね。そんなこと言われたこと、今までにありませんよ」
「それは、あなたが人と関わりたくないという意識の表れなんじゃないですか? まわりもなるべく関わりたくないという思いを抱いていたとしても、それは不思議のないことですからね」
「まったく仰るとおりです」
私は認めざるおえなかった。
「その時の不倫カップルというのはどんな感じだったんですか?」
「そうですね。あの時は他人事のように聞いていたので、彼ら自体が他人の話をしていると思っていたので、記憶が錯綜するかも知れませんが、ただ、不思議な話をしていた部分だけは記憶に間違いはないと思います。かなり昔の記憶ではあるんですけどね」
「でも、あなたはその記憶を鮮明に覚えていると自分でも思っているんでしょう? そこから新しい世界を創造してみたくらいだから」
「そうですね。まず、二人は恋人同士だということはすぐに気づきました。やたらと身体を密着させるようにしていて、絶えず手を握っていましたからね。見ているこっちまで恥ずかしくなるほどでしたよ」
「それは大丈夫です。想像している私の方も恥ずかしく感じるほどですからね」
そう言って彼は笑った。ある意味、ここが笑いどころとでも思ったのか、苦笑いではあったが、私に笑みを強要しているかのようにも感じた。私もそれに応じて微笑み返したは、決して普通の笑顔ではなかっただろう。顔が引きつっていたに違いない。
「店内のお客さんはそんなに少なくはなかったように思います。恋人同士の二人だったんですが、そんな中でヒソヒソ話をしていたので、完全に聞き取れたとは言い切れませんが、なぜか私にはまわりの喧騒を感じることなく、二人の話を聞けたような気がします」
「集中していると、そんなものかも知れません。特に気になる話であれば、無意識に聞き逃してはいけないという意識が働くはずだからですね。僕も経験ありますが、ヒソヒソ話ほど気になってしまうものはないですからね」
私は話を続けた。
「その時の二人は、自分たちが付き合い始めた時のことを振り返っているようでした。楽しかった頃の話を懐かしそうに話していたんです。ヒソヒソ話であっても、微笑ましく感じたほどでした。でも、急にその女性が嗚咽を始めたんです。それを男性がまわりに気を遣いながら宥めているようだったんですが、そこに少し違和感があったというのがその時の気持ちでした」