新しい世界への輪廻
友達は、母親から怒られたと思ったのだろう。煩わしいことを聞いて、面倒がられてしまった。友達は、
――僕が悪いんだ――
と母親に対しては感じたことだろう。
しかし、自分に対しては納得がいかない。
――僕がこんな嫌な思いをしなければいけないのは、最初に質問してきたあいつのせいだ――
ということで、恨みは私に戻ってくる。
元々無理な質問だったのを、押し通してしまったことでこんなことになってしまった。友達も災難だったに違いない。
しかし、そのせいで、友達と険悪なムードになってしまった。その頃から私のことを、
「あいつは、変わったやつだ」
とウワサになってしまい、自分の立場がクラスの中で泣くなってしまっていたことに気づかされた。
子供がまわりと気まずくなる時というのは、こういう些細なことからなのかも知れない。自分たち一人一人はなかなかその時分からないが、後から考えると分かってくるというものだ。
その時は、まず自分の立場から考える。まわりを見るのには扇型に目の前が見えている。まるでレーダーを見ているようではないか。レーダーというものは索敵の兵器であるが、そこにはどうしても避けることのできない死角が存在している。
死角というものを意識していないと、すべてが見えていると錯覚してしまい、一つ何かきっかけになることが見えただけで、そこからの想像力が、見えているという錯覚に繋がるのだが、それを、
――レーダーでの索敵だ――
というように感じるのであれば、それは錯覚でしかないのだ。
だから、友達が母親から受けた思いを。こちらにぶつけているのだということを理解していないまま付き合おうとすると、結局関係を修復することができず、喧嘩別れのようになってしまう。
そうなると、仲直りはできないだろう。なぜなら、その時に一番辛い思いをしたのが友達だということを私の立場からも、母親の立場からも分かっていなければ、両方向にしこりを残したまま、その友達は頑なになってしまうことだろう。そうなると、仲直りなどできるはずもなく、近づこうとすればするほど、しこりは硬くなっていくに違いない。
私はその時、最初に質問した「前世」への思いが少し分かったような気がした。
――何と皮肉なことなんだ――
と私は感じたが、それは、友達が間に挟まって辛い思いをしたということに気づけるかどうかで、前世への感情は変わっていくのだ。
前世についてその次に考えたのは、中学に入ってのことだった。その頃には小学生の時の友達とのしこりはなくなっていたが、その代わり、私自身、人との関わりを遮断するようになっていたのだ。
――それもこれも、すべては両親のせいなんだ――
という思いを抱いた中学時代、成長していく中で、
――大人になんかなりたくない――
という思いを馳せていた。
大人になるということは、子供の頃に感じた思いがリセットされ、親になった途端、子供の頃のことなどまったく忘れてしまっていて、
――自分も両親と同じになるのではないか――
と思うからだった。
つまり、大人になるというのは、私は子供を持った時だと思っている。本当であれば、
「自分の子供にだけは、自分と同じ思いをさせたくない」
と思い続ければいいのだろうが、私にはできない気がした。
それは私に限ったことではなく、他の人にとっても同じこと。
――誰もが親になった瞬間、子供ではなくなるのだ――
と、ずっと思っていたのだ。
中学時代に感じた前世というのは、
――前世は絶対に人間だったんだ――
という思いだった。
――人間は人間にしか生まれ変われない――
という思いがあって、高校時代まではそう信じていた。
人間が人間にしか生まれ変われないということは、ある意味、束縛にも似ていて、
――人は生まれることも、死ぬことも自分で選んではいけないんだ――
と感じた。
これは、テレビでも同じセリフを見た気がしたのだが、この思いはどこかの宗教の勧誘の人からも聞いた言葉だった。
話がどんなに説得力のあるものであっても、優先順位としてそこに宗教団体が絡んでくれば納得するわけにはいかないと思っていた。その思いがあったことから、高校生になってもう一度前世を考え直した時、
――自分の前世は人間だったとは限らない。人間だから人間に生まれ変わるというのは、束縛した考え方なんだわ――
と考えるようになっていた。
中学時代までは、前世に対して漠然とした考え方を持っていたが、高校に入り、少し変わってきた。
――自分の前世が人間ではないのではないか?
と思うことで、前世というものへの意識が変わってきた。
ある時、夢の中で自分が道端の石ころ、つまりは路傍の石になっているのに気づいた。すぐに目が覚めたが、その時の夢は、しばらく忘れることができなかった。
――こんなに長く夢を忘れることができなかったなんて――
と、感じたのだ。
夢というのは、目が覚める間に忘れるものだと思っていた。そして覚えている夢というのは、怖い夢に限るのだというのも、夢に対しての意識だった。しかし、この時は怖い夢を見たという意識はなかったのに、なぜ覚えていたのか、自分でも不思議だった。
私は、なかなか忘れることができなかったことで、それが前世だと気づいた。
――夢の中で前世を見るなんて――
と、感じたのだが、それも少しおかしな感覚になっていた。
さらに私は深く考えてみた。
――前世で、今の夢を見たのではないか?
と感じたのだ。
人間ではない私が夢を見たというのは、本当は夢ではなく、石ころのような動かないものにも意識があり、ある一定の期間、あるいは時期を過ごすと、石も前世と別れることになる。
その時、次の世界で人間になるとして、意識は持ったまま人間になり、ただ、その意識は決して開けることのできない「パンドラの匣」として封印されているのかも知れない。
――その「パンドラの匣」を私は開けてしまったということなのかしら?
という疑問を持つ。
しかし、あるキーワードを感じることでその「パンドラの匣」は開くのだとすれば、やはり私は、他の人とは違うという発想を持っていてもいいのではないかと感じるのだった。
現世で私は人間になっているので、何かを考えることができると思っている。だから、前世も後世も、自分は人間でい続けると思うのだ。
だが、人間以外でも、何かを考えることができるとすればどうだろう? 犬やネコのようなペットであっても、豚や牛のような家畜であっても、考えることができるのかも知れない。
いや、路傍の石であっても、何も考えていないと誰が言えるというのだろう。言葉が通じないから、あるいは、何も言葉を発することができないからと言って、何も考えていないと思ってもいいのだろうか?
もちろん、人間と同じ考えであるわけはないだろう。しかし、それでも、輪廻のように存在がこの世から消えて、来世に生まれ変わり、さらに来世が待っているという状態であれば、どこかで人間であることも考えられる。その時に考えるということを覚えていたのだとすれば、いくら石になってしまったとはいえ、考えることのできないとはいえないだろう。