短編集14(過去作品)
これがその時に感じたことで、秀樹の本音だった。もし焦って連絡を取ってしまうと、きっと後悔するに違いない。自分から連絡をしてしまえば、会話が成立しないことは後から考えても分かることだった。連絡することだけを考えて、胸の鼓動が収まらぬまま電話を掛けるということは、きっと頭の整理をつけることができなかったからだろう。
整理をつけられないのは泰代も同じに違いない。いつも会話の主導権を握っていた秀樹に電話越しでオタオタされては、会話が成立するなどありえないことなのだ。
泰代が気持ちの中で秀樹にしこりのようなものを持っていると感じたのは、その時だったかも知れない。電話越しの声ではあるが、明らかにうろたえている。声を聞けた嬉しさと、安心感とで気持ちはウキウキしているはずなのに、それだけでは言い尽くせないものを感じた。
秀樹は気のせいかと思った。会って話していて、まったく違和感が感じられなかったからである。しかし、違和感がない中で出会って、そのまま前後不覚に陥るほど酔い潰れるなど、秀樹の思っている泰代のどこを取っても信じられないような行動だった。
「私、アルコールは強いから、覚悟しておいてね」
いつもの泰代にそんな前置きはなかった。それだけでも雰囲気が違っていたのである。
泰代の部屋が、これほど狭いとは今までに感じたことはなかった。遠近感の取れない中で、テレビやテーブルなどを見ると、一つ一つは小さく感じる。しかしそれを遠いからだとどうしても感じることができず、狭く感じるのはそのせいかも知れない。
初めて来た時に比べても完全に狭い。以前来た時はシラフだったこともあり、意識はしっかりしていた。今もしっかりしていると感じているがそれは色をハッキリと感じるからである。シラフの時よりも視力がよくなっているのではないかと思えるくらいで、早鐘のような心臓の鼓動が、頭に響いていた。
まったく触れていないのも関わらず、泰代の暖かさを感じることができる。触れればかなりの熱を持っているのではないかと思えるほどで、火照った身体が麻痺したような感覚でいる秀樹にとって、触れてみたいのかそっとしておきたいのか分からなかった。
寂しかったと言った泰代の言葉を思い出していた。あの時の泰代の身体は冷え切っていた。もちろん、泰代を待っていた秀樹の身体も冷え切っていたに違いない。泰代に暖かさが戻ったのは、秀樹の存在に気付いたからだろう。それは泰代にとっての秀樹の存在という意味であり、胸の鼓動が聞こえるほど気持ちが近づいていたに違いない。
そういえば、秀樹は泰代についてあまり多くのことを知らない。泰代も比できのことをあまり知らないだろう。お互いに詮索することはしなかったし、自分から話すこともなかった。
秀樹はまわりの人から、
――来る者は拒まず、去る者は追わず――
だと思われている。秀樹自身にもその自覚はあるだろう。ある意味クールなところがあるのだ。
しかしそれも以前は違った。来るものは拒まないところはあまり変わっていないが、去る者は追いかけていた。それはしつこいくらいで、相手から本当に嫌われるまで追いかけていたかも知れない。一歩間違えば、ストーカー扱いされても仕方がないくらいだった。
電話や待ち伏せなども何度かしたことがあった。考えてみればそんなことをしても相手の印象がよくなるわけでもなく、却って最悪の結果を呼ぶことが分かっているにも関わらず、どうしてもそのままにしておけない性格だったのだ。
――何もしなくて後悔したくない――
というのが本音だったのかも知れない。
当然結果は最悪だった。相手は去っていき、ポツンと取り残された自分の中にあるものは、自己嫌悪の固まりだけだった。したくないはずの後悔が自分を襲う。だが、
――あの時は仕方がなかったんだ――
ということで片づけないとやりきれない気分になっていた。
それが、自分にある躁鬱症のようなものだと気付いたのは、学生ではなくなってからだった。
定期的に襲ってくる鬱状態に、最初は自分でも気付かなかった。何となく胸焼けのような気持ち悪さを感じ、
「風邪でもひいたかな?」
と思っていたが、どうも違うようだ。胸の鼓動を感じるようになり、椅子から立ちあがっただけでも、立ち眩みを起してしまう。熱っぽい感じがあり、指先は乾いているのだが、握った手の平にはぐっしょりと汗を掻いている。手の平に掻く汗は、風邪の時にはあまり感じられない。きっと感情的になると手の平に汗を掻かせるのだろう。背中にも汗を掻いているのを感じるが、額には汗を掻いていない。これも風邪の時とは少し違っていた。
そのうちに、視界が何となく暗くなってくるのを感じる。それでいて鮮やかな色が薄く感じるといった矛盾した感情が生まれるのである。
――まるで自分じゃないようだ――
見ている世界の違いにそんなことを感じる。
人の流れがスローモーションに見えてきて、自分だけが、焦って動こうとしても身体が動いてくれない。それは夢の世界に似ていた。夢の世界では、自分の潜在意識だけが繰り返される。意識がある以上、想像の域を越えることは、例え夢であっても不可能なことなのだ。焦りがやがて汗へと変わり、手の平や背中に気持ち悪さを感じさせる。夢から覚めた瞬間に感じる、ベットリと掻いた汗を背中に感じた時の、あの気持ち悪さである。
――泰代の中に誰か違う男を感じる――
とは漠然と思っていたことかも知れない。それが誰であるか分からないでは、気を揉んだとしても無駄な労力にしかすぎず、疲れるだけである。そんなところからか、クールでいるもう一人の自分がいることに気付いた秀樹だった。元から自分の中にいた性格なのか、鬱状態に陥った時にできるクローンのような性格なのか、分からなかったが、もう一人の自分を発見することで、秀樹の気が楽になったのは事実だった。
――歳を取ってきたのかな?
そう考えてしまうのも無理のないことであった。
泰代と付き合いはじめて感じたのは、気を遣う必要がないということだった。相手に気を遣わせないような性格というものが、無意識なさりげなさから生まれるのだということを、泰代と知り合うことで知った秀樹だった。
――去る者は追わず――
という性格が生まれたのは、泰代という女性の存在を知ってからかも知れない。
しかし本当に去る者を追わない性格なのだろうか? その時になってみないと分からないが、少なくとも、自分の中にもう一人の自分がいるのではないかと感じた時から、つらいことがあった時に、客観的に見ることができるような気がするのだ。それは冷静な目であって、感覚を麻痺させるものかも知れない。薬のように一過性のものに効くのであれば、それはそれでいいような気がする。
――泰代への思いは一過性のものではないはず――
自問自答が繰り返され、淫靡な雰囲気漂う中で泰代を抱こうと思わないのは、やはり客観的な目で見ているからなのかも知れない。
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次