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短編集14(過去作品)

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 そして贅沢だと思うのは、キッチンが大きめに作ってあることが最大の魅力に感じるからだ。ひょっとするとこのマンションは女性に優しい造りになっているのかも知れない。
 この部屋に来てコーヒーを飲む時の泰代は、主婦の顔になっているように見える。エプロンをした姿が板についていて、コーヒーを入れるさまも堂々たるものに見える。
――勝手知ったる自分の部屋――
 ということなのだろうが、それだけに泰代に妖艶さが感じられない。白光色の照明がさらに明るさを感じさせ、落ち着きと風格が泰代から滲み出ている。ホッとさせられる瞬間でもあるのだ。
 しかし、その日は違っていた。別にショットバーでの会話がいつもと違ったわけでもなく、逆にいつもより明るいくらいだった。こんなに呑んだ泰代を見たこともなく、何かストレスが溜まっているのではないかと勘繰ってしまっても仕方ないことかも知れない。
 とりあえず、抱きかかえるように部屋に入ると、まずソファーに寝かせるようにもたれかけさせた。急いで洗面台に行き、水をいっぱいコップに入れると、すぐに泰代に飲ませた。
「う〜ん」
 抱き起こすたびに漏れてくる泰代の吐息交じりの声、酔っ払った女性はあまり好きではない秀樹にとっては、辛いものだった。身体から沁みだしてくるアルコールの匂い、いくら付き合っている女性とはいえ、なるべくならこんな姿は見たくない。
 抱きかかえると身体全体が熱くなっているのを感じる。身体を動かすたびに漏れてくる吐息と同じく、眉が寄って苦しそうな表情をする、酔いつぶれることの苦しさを思い知らされたようで、あまりアルコールに強くない秀樹は、自分はそんなことのないようにしようと、今さらながらに思い知らされた気がした。
 何とか身体を起こして口元にコップを持っていって、口の中に水を流し込む。半分口が開いているので、こじ開ける必要がないのは楽だったのだが、却って口から溢れないかを気をつけながらゆっくりと飲ませた。
「水だよ、これで楽になるからね」
 と耳元で囁きながらだったが、本当に聞こえているかは分からない。それでも、
「は、はい」
 と消え入りそうな声で答えているのが分かっているのだろう。声は完全に擦れていて、いつもの泰代の声ではなかった。
「ゴクッゴクッ」
 喉を鳴らしながら、一生懸命に呑んでいるのが分かる。さすがに前後不覚に陥りながらでもしっかり水を飲んでいるところは、酔い潰れることに慣れているようだ。
――女性の酔っ払いはどんなものか――
 常々疑問を持っていた秀樹だが、中年のおっさんに比べれば、はるかにマシだった。介抱していても、相手が泰代だからなのかも知れないが、それほどの違和感はない。もちろん下心があるわけでもなし、むしろそんな状態の女性を抱こうなど、毛頭から思っていない。
 口元をタオルで拭きながら飲ませていると、少し楽になってきたのか、顔色がよくなってきた気がした。一つの責任感を果たせた気がして少し落ち着いた秀樹は、ネクタイを緩め、自分もコップに水を注いで飲んだ。
「ふぅ」
 思わず漏れる溜息に、自分もアルコールが入っていたことを今さらのように思い出させた。
「ははは、人のことばかりで自分のことを忘れていたよ」
 気がつけば軽い寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている泰代を横目に見ながら、ホッとしたのか、思わず呟いた秀樹である。
 その時のセリフはすべてが、
――思わず出た言葉――
 だったようだ。初めて見た泰代の酔い潰れた姿に、いかにも人間らしさを感じた秀樹は、このまま帰ってしまうことができなくなっていた。
 一気に睡魔が襲ってくるとはこのことだろう。身体が痺れたような感覚に陥ったのは、元々自分がアルコールに弱いのを自覚していたからであろう。しかも喉の渇きは尋常ではなく、それゆえにさらに疲れが溜まっているようだった。指先の痺れは喉の渇きからであろうが、全身の気だるさも感じてきて、気にすれば気にするほど、身体が痺れて動けない。
 泰代の寝ているすぐそばに腰を下ろした秀樹は、しばらく寝顔を見ながらソファーにもたれて天井を見ていた。遠近感が取れないような気がして、迫ってくる天井を思い浮かべてしまう。店ほどではないが、白光色の蛍光灯が目に眩しく、それできっと天井が迫ってくるような錯覚に陥るのだろう。
 秀樹の腕に熱い吐息が掛かっている。産毛が心地よく、酔いのせいで敏感になっている腕に気持ちいい。眠気が襲ってくるのも無理のないことである。
――寝ている時が本当の泰代なんだな――
 この寝顔を、他に誰が知っているのだろう?
 私以外にも知っていて当然なのだが、それを考えると、見たこともないその人に嫉妬している自分に気付く。
――いったい何を考えているんだろう?
 知っていたとしても過去のことではないか。それを今さらほじくって嫉妬するなど、やはりかなり酔っているのだろうか? 胸焼けなどするほど呑んでいるわけでもないのに、喉の奥からこみ上げてくる気持ち悪さに、悪寒すら感じていた。止まらない震えはそこから来ているのかも知れない。
 淫靡な雰囲気はないだろうと思っていたが、空気の流れはそれを許さなかった。仄かな酸味を帯びた香りが漂っている。空気に湿気を感じ、重たさを感じることができる。
――淫靡な空気ってこんな感じだったんだ――
 初めて感じたような気がする。今までにも感じていたはずなのだが、意識していなかったのだ。意識するだけで、これほど部屋の雰囲気が違って見えるなど、考えたこともなかった。
 秀樹は疲れとは反対に意識がハッキリしてくるのを感じていた。それは単に酔いが覚めてきているからだけではない、きっと淫靡な雰囲気に身体が反応しているからだろう。
 目を覚ますどころか、さらに深い眠りに入っている泰代の寝顔は気持ちよさそうだ。
――どうして、彼女としばらく会おうとしなかったんだろう――
 と考えてみる。覚めていく酔いの中で漠然と考えているが、その答えに結論は出てこない。会いたくなかったわけではないのだ。確かにお互いに忙しいというのはあったのだが、連絡取ろうと思えば取れたはずだ。ハッキリ言って連絡を自分から取ることが億劫だと思っていたと感じるのだが、泰代もそうだったのだろうか?
 一回連絡を取ろうとして携帯電話のメモリーを開いたことはあった。しかしダイヤルするまでには至らず、気がついたらボンヤリと携帯電話の番号を見ていたのだ。
 その時に鼻腔をくすぐる香りを感じた。酸味のある香ばしさが印象的で、懐かしさを感じるものだった。まさしくコーヒー専門店のコーヒーの香りだった。
 最近はコーヒー専門店の香りを味わった記憶がない。香ばしい香りは冷たい空気を運んでくる気がして、気持ち的には冬の訪れを感じている、店の中から漂う香ばしさは、暖かさを伴って秀樹の鼻腔をくすぐるのだった。
 香ばしい香りを感じることで、自分から電話しようとしてたまらなくなっていたことを忘れてしまっている。
――私から連絡しなくとも、泰代からしてくれるさ――
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次