短編集14(過去作品)
見えない私が隣にいて、まったく泰代に意識されることもなくその横顔を覗いているようで、いかにもカクテルライトと呼ばれる、赤や青といった色が泰代の妖艶さを醸しだしている。色は決して明るくはないが、ワインカラーっぽい赤は、妖艶さを引き出すにはもってこいの色である。
一口呑んでは流し込まれるワインに、喉の隆起を感じ、そのたびに口を離して、少し上向き加減で吐息のような溜息をつく。寂しげな表情を横顔からも見ることができ、それがさぞや絵になっていることだろう。
普通であれば、そんな女性を男性が放っておくはずはないように思える。しかし、秀樹は心配していなかった。不安がないといえば嘘になるかも知れないが、自分が想像できる限りの泰代は、男を近づけさせないような雰囲気がある。しっかりとした意志を持っているというのか、話しかけるタイミングが合わなければ、まったく無言のまま推移しそうな気がするからである。元々男を捜しに来ているというわけではないので、当然のことかも知れないが、もしそのタイミングを知っている人間がいるとすれば、秀樹は自分以外にはいないだろうと思うのだった。
「あなた、何を考えていらっしゃるの?」
少し喋り方が、またお嬢様っぽくなってきた。少し酔いが回ってきたのだろうか、カクテルライトに照らされたその顔はテカッて見える。林檎の表面のようにつやがあり、針でつつけば弾けてしまいそうな顔は、どう見ても酔いが回っているように思える。
泰代は秀樹に比べてかなりアルコールは強い。それをお互いに知っているので、秀樹が呑みに行こうと誘わないかぎり泰代から言い出すことはなかった。
そんな秀樹でもショットバーだけは違うと感じたから、連れて来てくれたのかも知れない。秀樹はアルコールを飲むのが目的というよりも、場の雰囲気を楽しみたい方なのだ。いや、それは泰代も同じなのかも知れない。
泰代は思ったより酔っているようだ。
「おや?」
秀樹がそう感じたのは、泰代の目がトロンとしてきたからであって、妖艶な雰囲気が漂い始めていた。いつもであれば、秀樹は泰代を抱きたいと自然に感じるのかも知れない。しかしその日の秀樹は少し違っていた。
いくら酔いが回っているといっても泰代の視線を見る限り、秀樹は自分の酔いに任せて泰代を抱く気にはなれなかった。泰代の視線は焦点が合っていないだけではなく、秀樹を捕らえていないのだ。本当であれば、泰代の潤んだ瞳に、秀樹の姿を捉えなければならないのだが、なぜかそれが見えてこない。どう考えても、泰代の視線の先に秀樹はいないのだ。
秀樹はどちらかというと馴れ馴れしくされるのを嫌うタイプである。しかしそれは中途半端な気持ちの相手だけであって、ただのガールフレンドや、その日だけのお遊びなどであれば、馴れ馴れしくされると億劫になるだろう。もちろん、その日だけのお遊びなど、それこそアルコールの酔いが根底にあるお互いの欲求のはけ口なの、馴れ馴れしい態度に表れるようなことはほとんどなかった。
泰代に関しては違うのだ。今までに会ったどんな女に対しても感じたこともない気持ち、好きだという気持ちは誰にも負けない。そして泰代に対して、泰代の今までに会った誰よりも私が好きだということも、間違いない事実のように感じる。そこに中途半端な気持ちはない。妖艶になって馴れ馴れしさが出てきても、億劫だと思うどころか、自然なことだと思う。それだけに、相手の視線の先を無意識にでも探っているのだろう。
泰代の視線の先、それは明らかに秀樹よりさらに遠くを見ている。虚空を見つめているというべきか、今までの泰代には見られなかったことだ。
いや、果たしてそうだろうか?
今から思い返してみれば付き合い始めに時々あったような気がする。その時も、
「おや?」
と感じたのだが、気持ちが中途半端だったこともあり、
――まぁ、いいや――
として片付けてしまっていたように思う。それも自然な気持ちの表れで、決して秀樹が焦らなかった理由の一つでもあったのだ。
いつも酔うと饒舌になり、何かを話しているはずの秀樹は、その日に限って無口だった。秀樹の提供する話題に対し、的確に答える泰代という構図が二人の間にはいつも存在していた。秀樹からの会話がないのでは、その場が凍り付いてしまっても仕方なく、お互いに顔を合わせるしかなかったのである。
合わせた視線のその先に、やはり写っているはずの秀樹の姿が見当たらない。そこまで酔いが回っているのかと思った秀樹だったが、意外に意識がしっかりしていることは自分でも分かっていた。自分を見つめているわけでもないのに、視線を逸らしたいと感じるにもかかわらず、視線を逸らすことができない。そんな不思議な感覚であった。考えれば考えるほど袋小路に入り込んでしまい、そのまま抜けられなくなってしまう。とりあえず静観するしかなかった。
泰代も、視線を逸らしたかったのかも知れない。気がつけば秀樹に寄りかかっていた。後から考えれば寄りかかる寸前の泰代の顔色は真っ青で、完全に視線を向けることが限界に達していたことを示していた。
――果たしてこのまま抱いていいものだろうか?
秀樹は初めて泰代を抱くことを躊躇った。泰代の身体は震えていて、いつものようなドキドキ感ではなく、怖がっているようにさえ思える。まるで処女を失う時の乙女のように、泰代は身体を固くしている。秀樹は今までに処女を抱いたことはなかったが、頭の中で感じていた新鮮なものなのだろうという考えが間違いだったと気付いた。まるで壊れ物を扱うように気を遣わなければならない状況に、新鮮さよりも、まず躊躇させる気持ちが表れてしまう。秀樹にとって泰代はもはやそんな女性ではないのだ。
――すべてを征服した女性――
として、前提に征服感を感じる人である。特に従順さを前面に感じていた泰代に初めて疑問を持ったのだ。
潔癖症ではないはずの秀樹が、
――僕がまさか潔癖症?
と思わせるような泰代の雰囲気に、少し戸惑っている。それからの行動はあまり覚えていない。きっと抱こうとしなかったに違いない。
何とか盛り上がった気持ちを抑えるかのように泰代を部屋まで送っていって、布団に寝かせた秀樹は、後ろ髪を引かれるような思いを感じながら、
「これでいいんだ」
と口に出して自分に言い聞かせた。
泰代の部屋は小綺麗に片付けられていた。さすが女の子の部屋を思わせ、姉のいる秀樹は、すぐに姉の部屋を思い出した。
秀樹がこの部屋に入るのは初めてではない。以前にも何度か連れてきてもらってはコーヒーを飲んだりしたことがあった。OLの一人暮らしが、どれほどの水準かを知らない秀樹であったが、綺麗に片付いているせいか、標準よりも上ではないかと思えた。
照明が明るいからかも知れない。
白光色を使って眩しいくらいのその部屋は、目に刺激が強すぎるのではないかと思わせた。しかし、いつもすべての電気をつけているとは思えないので、きっと一つだけ明るければいいようにしてあるのだろう。
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次