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短編集14(過去作品)

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 終わってしまえば、それまでのことはすべてが幻ではないかと思えてしまう。身体に纏わりつくシーツがむず痒く、意識はハッキリしないわりに身体のいたるところは敏感である。そんな中思い出すのは、私の耳元に耳鳴りとともに残っている彩音の消え入りそうな声だった。いつもより少しトーンが低くハスキーな感じが妖艶で、感極まった時の乾いたように透き通った声、それが耳鳴りと同化して、私の耳の奥に残っている。
 声とは実に不思議なものだ。普段の声に感じる妖艶さと、腕の中にいる時の妖艶さ、確実に違うものなのに、同じ人間だということを意識してしまう何かがある。彩音も私の声に同じものを感じているのだろうか?
「あなたの声はきっと何があっても忘れることないわね」
「どういう意味だい?」
「それだけあなたの声は私のものということ、どんな時もね」
 最初は意味がよく分からなかった。だが。私が彩音の声に特別な感情を抱いていることが分かると、
――お互いに声に恋をしているのかも知れない――
 とも思うようになった。
 そんな恋もあっていいのかも知れない。声のトーンや抑揚が相手の気持ちを表わしているのなら、きっと私も彩音もお互いの気持ちを理解できているに違いない。それが彩音を好きになった理由の一つではないだろうか。
 彩音からの手紙を読んでいると、そこからなぜか彩音の声が思い出せない。手紙の文章や文字から彩音を想像することが不可能ではないのだが、きっと声から想像する彩音とは違う彩音かも知れない。
――何とも不思議な女性だ――
 声と文字や文章、そして顔、すべてが結びつくことはないのだ。今まで知っている人すべては結びついてきた。ある程度まで見切っているはずの彩音ではあるが、そのまた奥にはオブラートに包まれた知らない世界がある。それが彩音に対して抱く、不安と期待だったのかも知れない。
 妻の顔が頭に浮かぶ。
 妻も結婚前はよく手紙をくれたものだ。もちろん、ワープロで打たれたものではなく、手書きだった。今から思えばそんな小さな心遣いができる妻に惚れていたから結婚を考えたような気がする。
――そういえば、妻はどんな字を書いていただろう――
 彩音の字を思い出すことはできるのだが、妻の字はなかなか思い出すことができない。なぜなのだろう? 今でも結婚前に貰った手紙は大事にしまってある。妻以外の女性から貰った手紙もあるのだが、もちろん、それとは別にしまってある。
 あれはいつだっただろうか? 私は急に思い立って以前に妻から貰った手紙を引っ張り出して読んだことがあった。最初の頃から時系列に沿って読み返していたのだが、
――今でもあの頃の妻の顔を思い出すことができる――
 と感じたものだ。
 しかしそれはその時だけで、手紙を読み終えて入っていた箱の中にしまいこむと、途端に思い出した顔を忘れてしまう。しかも今の妻の顔を思い出そうとしても思い出せないような中途半端な気持ちになった。
――読んでいる時は楽しかったのに――
 時間の感覚が麻痺するほどに楽しい思い出に浸っていた。思い出として出てくるのは、なぜか夕焼けの綺麗ないわし雲の浮かぶ空であった。綺麗な秋空なのだろうが、日が沈むにしたがって、明らかに風の冷たさを感じていたような気分だ。思い出の中であっても、寒さは感じるもののようで、何となくむず痒さすら残っていた。それだけ今は秋空が恋しいのかも知れない。
 不思議とお腹が減っている。小さい頃に遊んだ公園での思い出が目を瞑ると浮かんでくることが多いが、いつも夕焼けにいわし雲だったような気がする。大人になっていくにしたがって、静かな時間をゆっくりと過ごしたいという思いを抱くと、浮かんでくるのがこの風景だった。
 遠くで母親に呼ばれる声がする。途端にお腹の虫が反応し、音を鳴らすのだった。
 そんな条件反射が今も残っているのだろう。何かを思い浮かべようとした時に最初に浮かんでくる光景はいつも同じなのだ。
 真っ赤な風景が焼きついた目で、私はこれから何を見るのだろう?
 思い出に耽った後というのは本当であれば、そのまま余韻を楽しみたいと思うものだろう。しかし私には夕焼けの赤がどうしても気になってしまい。不吉な予感のようなものが残ってしまうのだ。
 それが血の色だと感じるようになったのはいつ頃からだろう。それまで不吉な予感は感じていたが、何から由来するものは分からないでいた。感じてしまえば、なぜ今まで気付かなかったかが不思議に思うくらい鮮明な赤である。
 気がついたから余計に真っ赤に見えるのだろうか?
 鉄分を含んだ嫌な匂いが鼻をつく。ただ夕焼けを想像していただけなのに、このリアルな感覚はあまりにも不自然な気がした。いつ頃からそんな匂いを感じるようになったのかを思い出そうとする。どうやら、彩音と知り合ってから感じるようになったように思えて仕方がない。
――血の匂いを感じる女――
 それが彩音だった。妻にも感じたことのないこの感覚。確かに血の匂いというのは女性特有のフェロモンのような香りと混じりあって気持ち悪さを感じるのだろうが、彩音に限って気持ち悪さはなかった。自然な香りである。いや、これ自体が彩音に最初に感じた香りだったような気もする。香水などあまりつけない彩音に、特別な香りが最初からあったのだ。
 彩音と抱き合っていて感じる異常なまでの気持ちの昂ぶり、今さらながらに思い出すことができる。声も次第に思い出すことができる。きっと匂いを思い出せば自然に声も思い出すだろう。
 匂いというのがこれほど男の気持ちを昂ぶらせるとは、初めて彩音によって知らされた気がする。
 文字と匂いと声と顔、それぞれが単独で存在しているようで、どこかで結びついている。点と線、立体が作り出す「次元」という世界、それに時間が入ると知らなかった世界を作り出すことができる。
 文字や声なども同じようなものではないだろうか?
 次元について学生時代にいろいろ考えたことがある。もちろん四次元まで含めたところだった。なかなか結論など出るはずもないのだが、それでも考えていると、毎回新しい発見ができる気がして不思議だった。
 本当に新しい発見ができたのだろうか? 袋小路に入り込んで、新しい発見だと思っても結局同じところに戻っているのではないだろうか。
 私には結局不倫などできなかったのだ。後から襲ってくる激しい後悔と、私に対する彩音の態度からの、彩音への不信感、この二つが私を苛む。妻への後ろめたさを感じながら家にいるのも辛いもので、ひょっとして私の不倫に気付いているのかも知れないと何度も不安に思っていた。
 気付いていて何も言われないほど辛いものはない。まるで針の筵に乗せられたような気持ちになり、どうせなら蔑まれた方が、いくらか楽というものである。あまり人に謝るのは好きな方ではなく、あまり人に謝ることのない私に惚れたと言っていた妻に対して矛盾した行動かも知れないが、知っていて黙っていられるよりもマシだと思う。
――本当に妻は気づいているのだろうか?
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次