短編集14(過去作品)
時々妙に優しいところがある。結婚してすぐくらいの時にもあった優しさなのかも知れないが、優しさがほとんどなくなってしまった今だからこそ、新鮮に感じるのかも知れない。私にはその優しさが怖くなるのだ。
ある日私が帰宅するとテーブルの上に置手紙があるのに気がついた。
「お友達とお食事に行ってまいります。食事が冷蔵庫の中に用意していますので、レンジでチンしてください」
と手書きで書かれていた。
実に平凡で小さな幸せを感じる瞬間とはこのことではないだろうか。
忘れかけていた妻の字、丸みを帯びたその字体はまさしく私の記憶の奥にあり、なかなか思い出せないでいた妻の字だった。私はその紙を震える手で掴んでしばし読んでいる。
妻の字を思い出すことで私は妻の顔、匂い、そして声、すべてを思い出すことができ、そして後悔の念が消えていくのを感じた。それぞれには単独の世界が存在し、点、線、立体、時間と決まっていた次元の間に、違う次元があるに気付いた気がする。その次元に時々落ち込んでは自分の居場所が分からなくなる。
平面と立体の違いと同じような世界が声や文字にはあるのかも知れない。まったく交わることのないと思える世界もそれを同じ次元で見ることができれば、そこは自分の世界。それぞれが単独で存在し、さらには共有した部分を持っているのだろう。私はそのことに気付いたような気がする。
なかなか止まらない震え、きっとしばらく止まらないだろう。
――彩音は私にとって……
そう感じた時、私はすでに行動していた。
「あなたの声も顔も文字もそして匂いも、すべて私のものなのよ。分かったわね。もうあなたは私から離れられないの」
この言葉が最終章だったような気がする。彩音は開けてはいけない「パンドラの箱」を自ら開けてしまった。今までの平凡で楽しかった妻との家庭が思い浮かぶ。妻の顔、匂い、そして声が走馬灯のようによみがえる。
目の前が真っ赤に染まり、鉄分を含んだ彩音の匂いがあたり一面に広がったのは、それからすぐのことだった……。
( 完 )
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次