始まりの終わり
だが、思い出すにつれて、次第に同棲していた時期のことが、すべてを混同してしまいそうなほどの遠い過去ではないように思えてきた。それは意識しているわけではないのに、そう感じるのである。
同棲していた時の彼女は、寂しさだけしか今では思い出すことができない。しかし、思い出すことのできる表情は笑顔だけだった。
――このギャップが示している意味というのは、どこにあるのだろう?
一つは、洋一自身の思い違いというのがあるだろう。それが一番大きいのは明白で、だが、それがどのようなものなのか、ハッキリとしない。
もっとも、今思い出してハッキリとするくらいなら、当時分かっていたはずだ。
――分かっていないつもりでいただけで、本当は無意識に理解していたのかも知れない――
と、感じるのは、少し無理のあることであろうか。
思い出そうとしている時間が長くなれば、次第に彼女の顔の輪郭が分かってきた。顔を思い出すまでには少し時間が掛かるだろう。それなのに、彼女の笑顔だけは思い出すことができる。顔を思い出せないというのに、その笑顔だけが思い出せるというのもおかしなものだ。
――それだけ思い込みが激しいということだろうか?
同棲している時、彼女は決していつも笑顔だったわけではない。むしろ、笑顔だった時期は珍しいくらいだったように思う。笑顔を浮かべていても、そこには本当の笑顔ではない、
「作られた笑顔」
が存在していたように思える。
「笑顔というのは、自分の本当の気持ちを覆い隠すのには都合のいいものなのかも知れないな」
と言っていた友達がいたが、その友達は学生時代の友達だったように思う。ということは、同棲していた彼女と一緒にいる頃は、その言葉が頭の片隅にはあったはずである。
ただ、今は思い出すことのできない彼女の笑顔だが、彼女の顔を思い出すとすれば、まずは笑顔からに違いない。
「どうして、彼女と付き合うと思ったんだい?」
と聞かれたとしたら、
「彼女の笑顔には、何か魔力のようなものがあったのかも知れない」
と答えるに違いない。
彼女の笑顔には、それだけの魅力があったというべきか、それとも、今は思い出せない彼女との付き合った理由を、「笑顔」という適当な言葉で妥当に纏めようとしているのかも知れない。
どちらにしても、彼女の顔を思い出すことがあれば、まずは笑顔からだと思うのも、無理のないことだろう。
――そういえば、彼女は自分の笑顔に自信を持っていたような気がする――
普通は自分の顔を鏡で確認しなければ、なかなか自分の表情を確認することはできないだろう。だが、女性は男性を意識するあまり、自分の顔を絶えず鏡で確認しているものだと思っていた。
しかし、すべての女性がそうではないだろう。特に自分に自信が持てない人は、自分の顔を確認しても、ネガティブに考えてしまうばかりで、次第に鏡も見なくなる人も少なくないように思える。
身だしなみ程度には鏡を見ても、そんな時間ですら苦痛に思っている人もいるだろう。それほど繊細な神経を持っている人であれば、余計に鏡を見るのを嫌うはずである。
せっかく魅力を持っている人でも、自分の気持ちを内に籠めてしまっては、もったいないの一言に尽きてしまう。
その点彼女は違っていた。
積極的に性格を表に出して、いつも輪の中心にいるような性格だった。しかし、本当の中心には違う人がいて、彼女の場合はいつもそのそばにいるという雰囲気が多い。自分を中心にしてしまうと角が立つことを知っていたのだ。それよりも、
――ナンバーツーでいることで本当に自分のことを気にしてくれる人を見つけやすくなる――
そんな打算的な考えがあったのも否めないと思うが、それでも自分の中に籠ってしまうよりもよほどいい。欠点を補ってあまりある長所を持った女性だった。
しかも、彼女の場合は、
「短所は長所と背中合わせ」
であるということをよく知っている。しかも、
「長所と短所は紙一重」
であるということも分かっていて、その相容れないように思える考えが彼女の中でうまく噛み合って、他人に自分の長所も短所も意識させないようにしていた。
長所というのは、自分から表に出さなくとも醸し出されるものだ。長所を表に出そうとすると、その横にある短所も目立ってしまう。下手をすると、長所よりも短所の方が目立ってしまい、そのせいで、せっかくの表に出そうとした性格が裏目に出てしまう。
そのことを自分で察してしまうと、表に自分の性格を出すことを戸惑うようになる。
内に籠ることがその人の性格になってしまい、せっかくの出会いもなくしてしまう。
出会いというのは異性との出会いだけではない。もちろん、同性との出会いもそうであるが、仕事や学校という出会いも逸してしまうことになる。
受験に失敗したり、就職の時に面接で落とされたりするだろう。相手は百戦錬磨の面接官、内に籠る性格の人を見抜くことくらいは朝飯前に違いない。
付き合っていた彼女がそうだったとは思わないが、ついつい悪い方にばかり考えてしまう洋一の悪い性格のせいで、思い出そうとすると、ロクなことを考えない。そのせいで、我に返った時、自己嫌悪に陥ってしまい、洋一はそれ以上、思い出そうとするのをやめてしまうのだった。
「思い出さなければよかった」
本当は、そのまま思い出してしまいたいという気持ち満々だったはずなのに、結果としては、思い出そうとしたことを後悔している。それだけ自分に対しての保守の考えが強いというべきだろうか。
白壁の喫茶店で、アルバイトの女の子を見ながら、かつての同棲時代を思い出すなど、いったいどうしたことなのだろう?
洋一は、元々一人でいることに慣れていたはずなのに、急に寂しさを感じていることがあった。それを感じさせるのは、
「寂しい」
という気持ちからではない。
自分が誰かと知り合いで、その人と違和感なく付き合っているという感覚に陥った時だった。その相手というのは、女性であり、男性ではない。洋一の想像は女性以外にはありえない。想像というよりも、妄想なのである。
妄想していると言っても、セックスしているような大人の妄想ではない。本当なら、大人の妄想をしていたいと思っているはずなのに、そんな時に限って感じるものは、まだ恋をしたことのなかった中学時代くらいの思いである。
キスはおろか、手も握ったこともない純情無垢な男の子。顔にはニキビが溢れていて、身体の奥から込み上げてくる感覚が、何なのかも分からずに、妄想ばかりを膨らませていた。
そんな時に限って、まわりの友達が、
「悪魔の囁き」
を送ってくる。
どうして身体がムズムズしてくるのか?
どうすれば、ムズムズを解消できるのか?
気持ちいいというのはどういうことなのか?
大人になるって?
などと、モロモロ囁いてくる。
聞かないふりをして聞いているが、そんな感情はすぐに表に出るもので、同い年なのに、明らかに大人と子供の差がそこにはあった。
洋一はその時、自分のことを、
「変態じゃないか?」
と思うことがあった。
その思いが自分によっての初めてのトラウマだったのかも知れない。