始まりの終わり
そんなことを感じながら聞いていると、次の章の曲がすでに思い浮かんでいる自分がおかしな気分になってきた。最近ではまったく聞かなくなったクラシックだが、学生時代の頃はよく聞いていたのだということを、いまさらながらに思い出させてくれた。
店内は思ったよりも広かった。奥まで続くテーブル席、カウンターも十人くらいは吸われるだろう。表から見た白壁の雰囲気からは、こじんまりとした佇まいに見えたのに、中に入ってみればここまで広いとは、ビックリさせられた。
扉から中に入り、入り口付近で、しばらく佇んでいたが、それも目が慣れるまでのことだということで、店の人も分かっているのか、誰も気にしている様子はなかった。
我に返って中に入ってくると、何の迷いもなく、カウンターの一番奥の椅子に腰を掛けた。するとアルバイトなのか、いかにも学生の雰囲気を感じさせる女の子が面前に立ち、メニューをカウンター越しに渡してくれた。メニューはカウンターの上に用意されていたが、わざわざ手に取って渡してくれたのだ。
「ありがとう」
彼女の目を見てお礼を言うと、
「いえ」
と言って、少しはにかんだ雰囲気が印象的だった。
彼女のことを、
「いかにも学生」
と感じたのは、このはにかんだ笑顔を最初から予期していたからだと思えてならなかった。
彼女ははにかんだ表情を浮かべたが、すぐに顔を背けた。
――恥ずかしいのかな?
と思うのは、自分に都合がよすぎるだろう。しかし、明らかにはにかんだ表情は恥じらいを感じさせるものだ。考えてから顔を背けたのであれば、他にも考えようがあるが、反射的と言えるほど瞬時に顔を背けたのだ。そこには他意はなく、やはり恥ずかしいと思っているからだと思うのが自然であろう。
洋一も、そんな彼女に気を遣ってか、なるべく顔を覗き込まないようにしていた。
その時店内は、テーブル席に数組の客はいたが、カウンターには誰もいなかった。その時はまだその店に常連客がいるのかどうか分からなかったが、カウンターに客が他にいなかったことから、
――今のところ、常連は誰もいないようだな――
と感じていた。
常連がいると、きっとからかわれたか、意識しながらも、ニヤニヤして、二人の様子を傍観していたであろう。もし、自分が常連客であれば、初めての客と、ウエイトレスの女の子の恥じらいを感じさせる雰囲気を見ると、イタズラしてみたくなるのも無理のないことだと思えたからだ。
その時間、後から聞いた話では、マスターは出払っていたということだった。アルバイトの彼女に店を任せて、一時間ほど外出していた。今までには、あまりなかったということだが、彼女も入ってきてからそろそろ半年ということもあり、
「だいぶ慣れてきただろうから、少しの時間任せても大丈夫だよね」
と言われて、ちょうど店を任されている時間だったという。
彼女は性格的に、嫌とは言えないところがあり、自信がなくても、それを言えないところがあるので、その思いから、かなり緊張もあったようだ。
カウンターに常連さんの一人でもいれば心強かったのだろうが、それもなかった。
早く常連さんが誰か来てくれることを望むか、店長が帰ってきてくれるのを望むかのどちらかだったようだ。
それでも、心配していたほどのことはなく、時間はいつものように刻んでいく。ただ、胸の鼓動がいつもより早回転なので、それだけ自分の中では時間の進みがいつもよりも遅くなっていることに気が付いていたのだろうか?
そんな中、やってきたのが洋一だった。
店内を見渡してみれば分かるように、その時、単独の客は他にはいなかった。カップルだったり、女の子同士だったりと、必ず誰かパートナーがいた。彼女はそれだけでも、かなり安心していたはずなのに、洋一がやってきた。
一人での来店の最初の客が初めての客だというのは、それまで安心できていた彼女の気持ちを一気に不安に落とし入れた。
――どうしよう――
と思ったに違いない。
しかし、それは洋一も同じこと、女の子が一人でソワソワしているのを感じていると、自分も不安になってきそうな気がしたが、最初にはにかんだ笑顔を見せてくれたことが、洋一にとって、安心できるだけの要素を十分に秘めていた。
彼女の方も、洋一がすぐに意識した視線を送らなかったことはありがたかった。二人のぎこちない時間は五分ほどだっただろうか? どちらの方が長く感じたのかは、それぞれの性格的なものの違いから一概には言えないだろうが、洋一の方だったかも知れない。
何といっても初めての店であったことが一番だが、そんな中でも、
――以前にも来たことがあったような――
という思いを抱かせた一番の原因が彼女にあるということに気が付かなかったことで、考え込んでいる時間が長かったのは、想像以上に、彼女とのぎこちない時間を長く感じさせるものだったに違いない。
奥での仕事よりも、カウンターの裏での仕事の方が多いのは、すでに、ランチの仕込みを終えてから店長が外出しているからだった。
まだモーニングの時間なので、ランチタイムまでには時間がある。彼女の主な仕事としては、洗い物に専念することのようだった。
洋一は、洗い物をしている彼女に興味を持った。
――自分にも奥さんがいれば――
と、いまさらながらにそんな思いを抱かせられたのだが、嫌な気はしなかった。あくまでも実現不可能と思えることなので、勝手な想像は、どんなに膨らませても罪はないと思ったからだ。
奥さんというものに対しての憧れは、若い頃に感じていたのは、自分がリビングに座っていて、キッチンで料理をしている奥さんを、横目に見ることだった。
自分はソファーに座り、テレビを見たり新聞を読んだりしてくつろいでいる時、奥さんはこちらに気づくことなく、一生懸命に家事をしている姿。そこに萌えるのだと思っていた。
実際には、一度だけ若い頃に同棲した女性がいて、彼女の様子を垣間見たことはあったが、いつも彼女から気づかれていた。
「ねえ、どうしたの?」
甘えた声が返ってくる。
それはそれで嬉しいのだが、家庭を想像してのイメージとは程遠いことから、どうも実感が湧かなかった。
しかも、設定は、リビングが分かれている部屋であるにも関わらず、同棲していた部屋は、マンションからは程遠い、コーポにもならないようなアパートだった。想像のシチュエーションが少しでも違うと、まったく違った設定になってしまうことは、妄想にはあることだ。
想像を妄想だと思っていなかったことも、イメージから遠ざけるものになっていたようで、同棲していた時期も数か月という短いものだったこともあり、数十年も経った今では、同棲していた時期があったということすら、記憶から消えかけていることを感じていた。
――いまさら、思い出すこと自体、おかしなことなんだ――
と、本当なら、もっと早くに忘れ去ってしまうものだったということを、感じるようになっていた。
喫茶店でカウンター越しに忙しく仕事をしている彼女は、当時の同棲していた女の子を彷彿させるものがあった。