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始まりの終わり

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 などという感覚はない。そんなことは十年以上も前から考えなくなった。十年前までは毎回同じように目を覚まして顔を洗ってから、考えようとする。しかし、考えても何かが出てくるわけではない。そのうちに考えるのが億劫になってくる。
――いつから考えなくなったのだろう?
 それすら分からない。別に考えるのをやめようなどと思ったこともない。
 一言でいえば、「ものぐさ」という言葉になるのだろうが、考えるということが億劫だという思いもなく、何も考えなくなったのは、「ものぐさ」という感覚とは、また違っているのかも知れない。
「横になっていて、起き上がるのが億劫なので、朝食を抜こう」
 と考えたのだろう。朝ごはんを食べなくてもお腹が空くわけでもなく、朝食を抜こうということを考えたという意識すらなかった。
 そのうち、
「今、何かを考えていたような気がしたんだが、思い出せない」
 と思うようになった。
 急に我に返ったからそう感じたのだろうが、本当に何かを考えていた自分が信じられないことの方が、思い出せないということよりも不思議に思えた。それでも、思い出せないという感情を抱いたのは、頭の中に何かがあったということを自分に言い聞かせるためのものではないだろうか。
 こんな毎日を過ごしていると、部屋の中では自分が生きてるのか死んでいるのかすら分からない気分になってくる。いつも肘を枕にしてテレビを見ているのがこの部屋の自分の姿であり、それ以外は自分ではない。自分に乗り移るための分身にすぎないのだった。
 それでも、三十代までは、部屋にじっとしているのが嫌で、表に出かけたりしていた。用もないのに電車に乗って街に出て、商店街をぶらぶらしてみたり、何かが見つかるとでも思っていたのだろうか?
 そのことも十年くらい前までなら分かっていたはずなのだが、それ以降は、分からなくなった。完全に違う人間になってしまったようだ。
 いや、違う人間というよりも、
「人間というもの、腑抜けになってしまうと、誰もがこんな感じなのかも知れない」
 と思うようになった。
 部屋にいて何もしていないのであれば、何かを考えていても不思議はないのに、考えているという意識がない。しかし、たまに気が付けば、何か考えていたという気配を感じる。そんな時、
「何か結論めいたものを見つけたのかも知れないな」
 と思った。
 それはまるで他人事のようで、そのことを感じると我に返ってしまい、
「今までの人生すべてが、他人事だったんだ」
 と、勝手な結論を導いてしまうのだった。
 テレビを見ていると、それなりにおかしなものに興味を持つ。それが他人事のように思える一つの要因に思えてきた。
 それは若い頃に、同級生などを見て、
――情けない――
 と思ったりしたことであった。
 例えば、アイドルに憧れてみたり、ゲームに興味を持ってみたり、若い頃であれば、
「何がそんなに楽しいんだ?」
 と、まるで汚いものを見るかのようにヲタクを見ていた自分を棚に上げ、ネットで検索し、それで得た情報を誰かに喋りたいという衝動に駆られたりした。
 しかし、さすがに誰かに喋ることはない。幸いにも喋る相手がいないのだ。もし、友達がいれば、まるで勝ち誇ったかのように話題にするかも知れない。そんな状況を若い頃の自分が知っていたら、どう思うだろう?
――そういえば、若い頃に、やたらと年を取りたくないと思ったことがあったな――
 理由は覚えていないが、年を取ることでモテなくなったり、孤独になったり、まわりの冷たい目に晒される自分を想像することで年は取りたくないと思ったことはあったが、この時は、その中のどの理由でもなかった。
 若い頃と今とでは、どこがどのように変わったのかと言われると、正直何とも言えない。変わったところはたくさんあるのだろうが、それを一つ一つ確認していると、変わっていないところまで変わってしまったかのように思えてくるのが嫌だったのだ。
 逆に、
「どこが分かっていないのか?」
 と聞いてくれた方が答えやすいかも知れない。
 ただし、その答えを導き出すには、かなり時間が掛かりそうだ。あまりにも変わったところが多すぎて、気が付けば消去法を変わっていないところを探している。
「これでは、変わったところを探しているのと同じではないか?」
 と言われるのだろうが、あからさまに変わったところという意識で探すのと、変わっていないところを探しているつもりで探っているのとでは、同じ意識を持つうえで、重みが違ってくる。
 どちらの重みが違うのかというと、
「変わっていない方の重みの方が、数段重たい」
 と言えるのではないだろうか。それだけ貴重な部分であり、変わった部分から掘り出してみなければ、掘り起こすことのできないものであり、だからこそ、時間が掛かると言えるのではないだろうか。
 ただ、時間が掛かると言っても、定期的に刻んでいる普段感じている時間ではなく、
「点から点に飛び越える時間という軸」
 であり、肝心な部分を把握していなければ、すべてを見失ってしまうという危険と裏腹なものではないだろうか。
 若い頃のことを思い出す時、急に怖くなることがあるのは、その意識が無意識に頭の中にある時だ。そういう意味では、若い頃と変わっていないところを探すというのは、自分にとっての諸刃の剣になるものなのだろう。
 年を取ってから、やけに自分のことを他人事のように感じるようになり、あまり余計なことを考えないようにしている。毎日がマンネリ化しているのだが、それも仕方のないこと。若い頃にバカにしていたことを今さら興味を持ったというのは、自分を他人事のように考えられるようになったからなのかも知れない。
 テレビを見ていてアイドルが出てくると、
「昭和の頃のアイドルとは、かなり違っているよな」
 と思えてきた。
 もし、自分が今学生だったら、アイドルを追いかけていたりしていただろうか?
 いや、それはないだろう。アイドルを追いかけることが自分の本意ではないことに間違いはない。だが、自分が学生時代、アイドルに興味がなかったのは、自分に何か一生懸命になれるものがなかったことの裏返しのように思えてきた。何か一生懸命になれるものがあれば、自分のまわりのものにも目を向けるだけの気持ちもあったはずだ。それが気持ちの余裕というものではないだろうか。
 アイドルをテレビで見るようになってから、それまで家に籠りっぱなしだった気持ちが、少し表に向いてきたような気がしてきた。季節はまだ冬真っ盛りで、本当であれば部屋から出たくないと思うはずなのに、表に向いたというのは、どういう風の吹き回しなのだろう。
 その時に、以前何度か立ち寄ったことのある住宅街の近くの喫茶店を探してみようと思ったのだ。
 まさか、今も残っているとは思えなかったが、とりあえず来てみようと思ったのは、何か予感めいたものがあったからだろうか。
 探している喫茶店はすでになく、その場所は有料駐車場として活用されていた。少しがっかりはしたが、
「せっかく来たのだから、少し散策してみよう」
 と思ったのだ。
 大通りを少し入ったところに、白壁が見えた。
――あれは喫茶店では?
作品名:始まりの終わり 作家名:森本晃次