小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

始まりの終わり

INDEX|4ページ/33ページ|

次のページ前のページ
 

 自分の立場を認めないと、物語は始まらない。テレビドラマでは最終的には脱却できるのだから、見ていてその過程を楽しめばいいだけだが、現実ではそうも行かない。いくら一人で家族を持っていないとはいえ、家族を持たない自分の立場を洋一自身で認めるということは、そうたやすいことではない。それができるくらいなら、以前から、もう少し自分の人生をあがいてみようと少しでも思っていたことだろう。
「気が付けば、こんな年になっていたんだ」
 何度、そんなことを感じたことだろう。
 前に感じたのがいつだったのか、正直覚えていない。
 昨日だったのか、おとといだったのか、それとも一年前だったのか。それだけ、その間に何か他のことを考えていたという意識がない。考えていたのかも知れないが、違うことを考えると、それ以前に考えていたことを忘れてしまう。そんな毎日が、自分にとっての四十代だったのだろう。
 同じ四十代でも、子供が思春期の難しい時期であり、自分自身が中間管理職という板挟みの時代を生きている人たち、どちらがいいとはいいがたいが、お互いに相手を見ると、羨ましく感じるに違いない。
「隣のバラは赤い」
 まさにその言葉通りではないだろうか。
 四十歳を過ぎると、同じ妄想でも、内容が変わってきていた。しかし、本人はそのことに気づかない。相変わらず、同じような妄想を繰り返していると思っていた。
 では、誰がその妄想の違いに気づくというのだろうか?
 気づく人はいないのかも知れない。気づくとすれば、本人以外ではありえない。とするならば、本人が気づかない限り、同じ妄想を果てしなく繰り返すことになる。
 もし、本人が気づかない場合はどうなるか?
 本人が無意識の中で年を取っていないことになる。ただ、本人は意識の中では、
「年を重ねている」
 と思っている。
 それは肉体の衰えが、身体の中に信号を送り、年を取っていることを教えているからに違いない。
 ただ、それは意識してのことではない。
「本能が教えていることだ」
 と言ってもいいだろう。
「あれだけ、十代、二十代の頃は鏡を見ていたのに」
 と、四十代になると、急に鏡を見なくなったことを、しばらくしてから気がついた。いくら妄想だとはいえ、女性にモテたいという思いから、無意識に鏡を見ていたのだろう。それでも、四十代になると、自分の老けていく姿が目の当たりになり、嫌でも妄想から現実に引き戻されることに違和感があるのだ。
 だからといって、鏡を見なくなったのはどれだけが原因ではない。
――自分の顔を見たくない。目の前にいる自分が本当の自分だというのを認めたくない――
 という思いが強いからに違いない。
 鏡というのは、左右対称である。
「自分が見ているのとは反対の顔をしているのではないか?」
 そんなことを考えていたのが、二十歳過ぎの頃だった。
「順風満帆のように見えても、必ずどこかに歪が存在する。歪が存在するのであれば、順風満帆になど見えない方がいい」
 と思っていた。
 四十代になると、そんな感覚も失せていた。毎日が同じように始まり、同じように過ぎていく。
「同じ日を繰り返しているのではないか?」
 などと、何度考えたことだろう。
 そんなことあるはずないのに、勝手に頭に浮かんでくる。これは、
――いつも抱いている妄想の副作用のようなものなのだろうか?
 などと、考えたりしていた。
 以前通っていたスナックにいた女の子の面影は、ずっと思い出せないでいた。だが、彼女の存在を忘れたことはなかった。
――忘れたことはなかったのに、その面影を思い出せないというのは実にもどかしいものだ――
 そんなことを感じているから、年を取っていくうちに、毎日への意識がマンネリ化して行ったのかも知れない。
 五十歳を超えた今になり、また新しい店を馴染みにしようと思うようになった。それまでにも何度かスナックやバーに立ち寄ってみたが、どこも馴染みになれる木がしなかった。やはり、最初に気になる女の子がいた店のイメージが頭から離れなかったからかも知れない。
 今では、スナックやバーに自分から訪れようという気持ちにもならず、喫茶店に立ち寄る程度が精いっぱいだった。
 しかも、最初に常連になった店で強いイメージを抱いてしまうと、それ以上はおろか、足元にでも及びそうなことというのは、なかなかありえないと思ってしまうのだ。
――どこかが違う――
 と、一瞬でも感じてしまうと、その店には二度と足を運ぶ気にはなれなくなってしまっていた。
 そんなことが何度か続くと、
「もう、常連になれるような店を探さなくてもいい」
 と思うようになった。咽喉が乾いたり、お腹が減ったりすれば、適当に目についたお店に入ればいいだけだ。そこが、別に想像していたほどおいしいものを出してくれない店であったとしても、
「目の前にあった店に入っただけだ」
 と思うことで、損をしたような気にもならない。その店には二度と行かなければいいだけのことだからだ。
 だが、目の前にある店に入っただけだと感じる店に限って、結構味がよかったり、雰囲気は悪くなかったりした。
「また、行ってみてもいいな」
 とは思ったが、どうにも常連になろうという気はしてこなかった。店の雰囲気が常連が生まれる雰囲気ではなく、客の回転で営まれているようなお店で、利用価値としては、待ち合わせに利用できるかも知れないと思う程度だった。
 実際に、最近では、昔あったような「純喫茶」を見つけることは難しい。昭和の頃であれば、商店街の外れだったり、駅前や、さらには住宅街から少し入ったあたりに喫茶店を見ることができた。洋一の印象深かった店は、住宅街から表通りに出たところにあったログハウスのような店だった。駐車場には十台分くらいの車を止めれるスペースがあり、当時であれば、いつも五,六台はいつも止まっていて、近づいただけで、コーヒーの香ばしさを感じることができるほどだった。昭和も終わりかけの大学時代。喫茶店最盛期から比べれば、ロウソクの炎が消える前だったのかも知れない。
 今でも、もしそんな喫茶店が残っていれば、化石のような存在ではないだろうか。洋一は五十二歳の誕生日になったその日、懐かしくなってその喫茶店のあったあたりに赴いてみた。
 ちょうど土曜日で休みだったというだけのことで、誕生日だったということには、後になって気が付いたのだが、その日は朝から何となくソワソワしたものがあった。そんな気分は、五十代になってからはおろか、ここ十年近くも感じたことのなかったことだったように思う。
 予感めいたものがあったのだとすれば、何でもかんでもが面倒臭いと思うようになったのはいつ頃からだったのだろうか?
 朝起きて、顔を洗ってから、横になりながら、ボーっとテレビを見る。
 顔を洗うまでは今までの習慣なので、違和感はない。横になってテレビを見るのは、いつものことであり、
――気が付けば、テレビを見ている――
 ということだ。
 しかし、そんなことを感じることもないほど、まったく無意識の行動だ。
「今日は休みなので、何をしようかな?」
作品名:始まりの終わり 作家名:森本晃次