始まりの終わり
ネガティブに感じているということを知りながら、それはあくまでも自分の中にある男としての意地だと思うことに徹したいと感じていた。そのためには決して、
――女々しい――
などという感情を抱いてはいけないはずだったにも関わらず、その思いを一度でも感じてしまうと、
「今までにも同じ感覚を味わったことがあったような気がする」
と、昔のことを思い出そうとしてしまうのだった。
昔のことを思い浮かべていると、今まで自分が成長してきたことを再認識し、ホッとした気分になれる。
自分を否定したいと思っているくせに、昔の自分を思い返している時はそんなことは考えないのだ。
なぜなら、今の自分が昔の自分の目になって、先を見ているつもりでいることで満足できるからである。本当は、先を見ていたのかどうか覚えていない。しかし、今の自分は過去の自分からすれば、間違いなく、
「先の自分」
であることに間違いはないのだ。
その時の感情次第というよりも、立場を変えてみることで、どれほど自分を慰めることができるか、それが年を取ることで感じた思いだった。
それは角度によって、光が見える時もあれば、見たくないものを見ないで済む場所も分かってくる。そして、昔の自分が今の自分を想像していたかのように思うことで、今後ろを見ている自分がそのまま前を向き直ると、見えていなかったものが見えるような気がしてくるのだ。
ただ、寂しいという感情は若い頃のように簡単に隠すことはできない。年齢を重ねてくると、寂しさという感情は、リアルさを増してくるのだった。
そんな時、洋一はどうしても一人になってしまう。肝心な時に一人になってしまうことが多かったからなのか、結婚もできずに、年齢だけが重なって行った。
「結婚なんて、いつでもできる」
などという感情を抱いたわけではないが、結婚できないことに対しての焦りはなかった。むしろ、一人でいることの方がいいと思っていたくらいだ。洋一は一人でいる時、一人の世界に入り込むことが多い。そのため、結婚しなくても、結婚している妄想を抱くことで、一人でいても焦りなどを感じる必要もなかったのだ。
他の人にそんな話をすると、
「一人でいるから、そんな妄想するんだ」
と言われるだろう。
もし、洋一のまわりに人がいて、妄想している人を見ると、まるで汚いものでも見るような、思わず目を逸らしたくなる気持ちになるのではないかと思えた。
一人でいることが多くなると、時間が経つのが早くなった。
十代の頃は、一日一日があっという間だったのに、長い期間を考えてみると、結構時間が掛かったような気がしている。
二十代になると、今度は一日一日がいろいろあっても、長い期間では、あっという間だったように思う。
十代の頃の意識は忘れてしまっていたが、二十代の頃は、毎日が充実していたことで、そんな感覚になったのだろうと思う。しかし、三十歳を超えてからというもの、毎日があっという間で、しかも、長い期間で区切ってみても、あっという間に過ぎていった。
それなりに何かあったはずなのに、それすら記憶にない。
「一人でいたい」
という気持ちはあったが、それ以外に何を考えていたのか、思い出せないのだ。二十代の頃のことは結構思い出せるのに、最近のことは、直近のことですら思い出すことはできない。きっと、妄想の中の時間だけが過ぎていて、現実世界での自分は、どこかの瞬間から、取り残されてしまったのかも知れない。
妄想というのは、大人になってからというよりも、子供の頃の方がたくさん抱いていたような気がする。実際にまだまだこれからと思っている子供時代の方が、いろいろな発想を抱くことができる。テレビのアニメやゲームなどを見て、勝手な妄想を抱いてみたりしたが、
「子供だから許される」
という思いと、
「大人になったら、きっと妄想なんて抱かないんだろうな」
という思いとで、子供の頃の妄想は、まるで大人が仕事をするようなものだと思っていた。妄想することが、成長に繋がると思っていたのだ。
確かにそうに違いない。
妄想もできない子供は大人になっても、夢や希望など抱くことはできず、目標のない人生を歩むことになるということは、子供心に感覚的に分かっていたような気がする。だが、大人になってから抱く妄想はもっとリアルだ。だが、大人になって妄想を抱くことができるのは、一人でいる自分の特権だとまで思うようになったのは、いかがなものか。
だが、現実に雁字搦めに縛られて、
「それこそが大人の世界」
だとして、大人の妄想を否定しようとするくらいなら、一人で妄想していたいと思う。それをわがままだというのなら、洋一は頭の中で堂々巡りを繰り返し、出口のない頭の中でもがき続けるに違いない。それこそが、
「妄想のアリ地獄」
だと言えるのではないだろうか。
そんなアリ地獄になど落ちたくはない。出口がないのなら、出口を作っておいてから、妄想の世界に入り込む。それは逃げ道を作っておくのではなく、気持ちに余裕を持つためだ。もし、それを逃げ道だと考えるのであれば、大人になってからの妄想は、どんなに小さくても、魔が差したというほど些細なものであっても、一度入り込んでしまうと、出口を見つけることはできないのではないだろうか。
――一人でいることの意義は、妄想の中から見つかるものだ――
と、洋一は思っているのだ。
洋一は、三十代までは、そこそこ結婚の夢や妄想を抱いたりしていたが、さすがに四十歳を超えると、結婚の妄想も抱かなくなった。
洋一が抱いていた妄想というのは、自分が結婚してから子供が生まれ、マイホームを持つという、テレビドラマなどにありがちなイメージである。
もちろん、結婚したことはないので、抱くイメージはいい方にしか抱かない。ドラマでは、家庭の波乱万丈を描いているが、それも、
「いろいろなことがなければドラマにならないからな」
と、あくまでもドラマ作成のための、
――フィクション――
だというイメージを持っていた。
もちろん、いくら結婚したことがないからと言って、すべてが順風満帆に行くはずはないと思うのだが、どうしてもいい方にしか頭が向かないのは、抱いているのが、
――妄想――
だからである。
リアルで生々しいものが妄想であるはずもない。なるべく抱いた理想を壊すことなく、頭に描きだしたものである。それが、人間の心理であり、願望でもあった。
「妄想は、願望を形にして、ドラマ仕立てで頭に描いたものだ」
というのが、洋一の考えだった。
テレビドラマを見ていると、どうしても自分と同じ年齢の男性に目が向いてしまう。
四十代にもなると、子供たちは中学生、高校生になっていて、思春期の難しい年頃になっている。しかも、自分は会社では中間管理職。上からは押さえつけられ、下からは突き上げられる。板挟みになってしまっている状態からは、悲哀しか見えてこない。
そんな男性が主人公だとしても、それは悲哀から、脱却するための物語から始まる。つまりは、
「まずは、自分の惨めな立場を見つめることから始まる」
ということだった。