始まりの終わり
そんな母親がどうしてそんな屈辱的な仕打ちを息子から甘んじて受けているのか、洋一の頭の中では、
「しょせん、あの女は母親という仮面をかぶったただの『メス豚』に過ぎないんだ」
と思っていた。
自分が、その後彼女もできず、できたとしても、理不尽な別れ方をする羽目になったのは、すべて母親の「メス豚」を知ってしまったからだと思っていた。
理不尽な別れ方というのも、こっちは普通に付き合っているつもりなのに、
「あなたのような性格の人とはお付き合いできないわ」
と言われてみたり、別れを切り出されてその理由が分からずに、当然のごとく、
「僕には分からない。どうして別れるなんて言うんだい?」
というと、相手の女性はキレてしまい、
「あなたのそういうところが理由なのよ。どうして、そうやって相手に答えを求めようとするの? 自分で分からないとでもいうの?」
と言われ、すっかり相手に主導権を握られてしまったことに憤りを感じながらも、どうしていいか分からない自分の情けなさも一緒に感じていた。
「ああ、分からないよ。どうして、僕が分かっていながら分からないふりをしなければいけないんだ」
分からないから聞いているのに、あたかも分かっていることのように言われると、洋一の方もイライラしてきて、キレてしまう。
「そうよ。そこなのよ。あなたは、そうやってムキになるでしょう? それはすなわち分かっている証拠なのよ。自分で分かっているということを自分では認めたくない。自分の中でだけで完結していればそれで済んだのかも知れないけど、他人から指摘された。だから、あなたには耐えられない苛立ちを感じているのよ。今あなたがキレているのだって、どうせ自分では分かっていないつもりなんでしょう?」
まさしく図星だった。
彼女のいう通り、洋一にはなぜ自分がそこまで苛立っているのか分からなかったが、彼女から言われたことがいちいち棘があり、胸の奥に深く突き刺さってくることまでは分かっていた。
――結局、自分の気持ちは自分が一番分かっていないということか――
いつも感じている結論に落ち着いてくる。
――自分の姿ほど、鏡のような媒体を通さないと見ることができない――
という結論である。
その女とは、それからすぐに別れたが、付き合い始めた時は、
――この人ほど、俺のことを分かってくれている女性はいないんだ――
と思っていた。こちらが何も言わなくても相手が気を遣ってくれて、先に用意してくれていることも多かった。
――この人なら、一緒にいるだけで至れり尽くせりだ――
と思いながら、いっぱい甘えたいという気持ちも強く持っていた。
しかし、その時、自分が甘え下手であることに気づかなかった。母親への蹂躙で、自分の本性に気づいた洋一は、自分が尽くされる方ではなく、自分中心でなければ我慢できないということまで気づいていなかった。
本性に気づいたのだから、あと少しの考えで辿り着くはずの発想なのに、この距離が何とも遠いことか、その時の洋一には気づくすべを持っていなかったのだ。
洋一は、自分の中にあるS性に気づいていたが、S性があるからと言って、甘えん坊な性格ではないと思っていなかった。性格に多重性があってもいいと思っていたのだ。
その証拠に、大学に入ってからの洋一は、自分が二重人格であるという意識を持ったことがある。
――世間一般には二重人格はあまりよくは言われないが、俺はそうは思わない。一つの身体に複数の性格が混じっていてもいいではないか。それを使いこなすことさえできれば、これ以上素晴らしいことはない――
と思っていた。
そして、自分はそれを使いこなせると思っていた。なぜなら、それまで自分の性格に気づいていなかったのに、何も問題なく過ごしてこれたからである。実際にはまわりの人に多大な迷惑を掛けたり、自分本位をまわりがフォローして気を遣ってくれていたから、っ問題にならなかっただけなのだ。そのことに気づかなったことが、女性との恋愛において、大きな枷になってしまっていた。
それでも、
――どうして自分が異性にモテないのか? そして、自分が分からないことを、まわりは分かっていて、どうして分からないのかと聞くのか?
ということをずっと悩んでいた。
そんな中で、一人の女性から言われたこと、
「あなたは分かっているはずよ」
という言葉は、さらに自分の考えを複雑にしてしまった。
――ひょっとしたら、時間を掛けて考えれば自分でもおのずと分かってくることなのかも知れない――
と思うようになり、ゆっくりと考えていこうと決めた矢先に、今度はまったく違った発想を思い浮かべさせるような発言をする女性がいた。
しかも、彼女は自分が一番安心して付き合える相手、つまり気を遣ってくれている女性だと思っていたのだ。
それなのに、最後のこの仕打ちは、
――可愛さ余って、憎さ百倍――
だったのだ。
どうして彼女がそんなことを言うのか、洋一なりに考えていたが、やはり、
「あなたは分かっているはずよ」
という言葉が引っかかり、自分で分かっていることでも、表に出してはいけないことを自分の中に抱えているからなのかも知れないと思うと、それまで別世界の出来事のように思っていた母親への凌辱が自分の中にあることを思い出した。
それこそ二重人格のもう一つだと思っていたのだが、自分ではそれをうまく使いこなしているように思っていた。
つまり普通の時の自分が表に出ている時は、母親を蹂躙している自分は完全になりを潜めている。そして母親を蹂躙している時も、普段の自分はなりを潜めているのだ。それこそ、
――二重人格をうまく使いこなしている――
と言えるのだと思っていた。
今から思えば、半分は正解で半分は間違った考えだったのではないかと思えた。
確かに、一人が表に出ている時、もう一人を内に隠すということは難しいのではないかと思っていた。しかも、まったく記憶から消し去ることができるほどになっていた。それは仮にも母親と呼べるような人を蹂躙しても、ほとんど罪の意識を感じることのない自分が、普段はまったく表に出てくることがないからだった。
ここまでのS性ならば、表に出たいと思う気持ちは十分にあるはずであり、果たして普段の自分にそれを抑えることができるかというと、自信はなかった。それなのに、抑えることはできたのだ。
――いや、抑えることができたわけではなく、Sの自分が自分から表に出ないようにすることができるのかも知れない――
と思うからである。
それなのに、女性は洋一の何が分かるというのだろう? 女性だからこそ、洋一の男性には見えないS性に気づくというのだろうか?
そういう意味でいえば、洋一が別れの原因が分からないというと、
「どうして分からないの?」
と言われることはまだマシであった。
女性に、洋一の本性は分かっていないということだと思うからだ。もし、洋一のS性を分かってしまったのなら、明らかに視線が違うはずである。まるで汚いものでも見るような目になってしまったり、
「一時も一緒にいたくない」
という思いから、連絡を取ることもなく、目の前から姿を消していることだろう。