始まりの終わり
「大人しいだけに、何を考えているか分からない。しかも、元々表情がないわけですからね。何を考えているのか分からないというよりも、喜怒哀楽が分からないということの方がよっぽど怖い気がしますよね」
その人との会話は、とどまるところを知らなかった。話しているうちにいろいろな発想が生まれてくる。それはまるで、まったく何もない顔が、どんな顔にでもなることができるというのっぺらぼうという発想を裏付けているかのようである。
しかし、最後にその人の言った言葉が一番印象的だったのを思い出した。そして、最後の瞬間も……。
「だけどね。一番怖いのは、まったく表情のない最初のその顔だということなんだよ。それって人間の根底を見ているような気がするんだ」
と言って、にやりと笑った。
――この表情、頭に焼き付いて、忘れることはないんだろうな――
と思ったが、次の瞬間、今の表情を忘れている。思い出そうとすると、浮かんでくるのはのっぺらぼう。ドキッとして頭を冷やしにトイレに行って顔を洗って戻ってくると、さっきまで話していた人はいなくなっていた。
「さっきまで、僕と話していた人は?」
と店の人に聞くと、
「えっ、何を寝ぼけているんだい? 誰もいなかったじゃないか。今日の客は君だけだよ」
と言われて、驚愕し、
――そんなバカな――
その場に立ち尽くしていた。それからどうなったのか覚えていないが、このことを思い出したのも、あれから初めてだったような気がする。あるいは、記憶にあったものではなく、今勝手に創造したものなのかも知れない。
その日の出来事は、数日頭の中にこびりついていた。しかし、ちょうど一週間が経ってからであろうか、まるで昨日のことのように頭の中にクッキリと残っていた記憶が、遠い過去になってしまっていた。
昨日のことのように思っていたことが急に過去のことに変わってしまうと、事実だったのかどうかすら怪しくなってくる。
「人の噂も七十五日」
とよく言われるが、ある日を境に、それまで意識から離れなかったことが、遠い過去として残ってはいるが、ほとんど消し去られてしまったかのようになることは往々にしてあった。
洋一にも、かつて同じような経験があったが、それなりの理由があってのことだった。少なくとも、自分に密接に関係のあることで、今回のように、フラッと立ち寄った、自分には関係のないはずの場末のスナックのようなことであるはずはなかったのだ。
一度、遠い過去に置き去られてしまうと、自分で意識する力は失われてしまう。外からの何らかの力が加わらなければもう一度意識するなどということは、まずありえないだろう。
確かに、店の中での数時間の間に、いろいろな発想を思い浮かべた。数年間を凝縮したかのような発想に、自分でも背筋が凍るかのような思いがあったように思えた。
しかし、店を出てから家路について、自分の部屋に入ってしまうと、
「さっきまで、この部屋にいたような気がする」
と感じた。
今の今までスナックの印象が頭の中に溢れていたのに、自分の部屋に入った瞬間、ついさっきのことだったなどと思うことができなくなっていた。
――それだけ、あの世界は普段覗くことのできない世界だったのかも知れない――
と感じた。
まるで夢を見ていたのではないかと若い頃なら感じただろう。しかし、五十歳にもなると、
「夢を見ていたのではないか?」
と感じるのは、自分が認めたくないという思いを抱いていることの証明だということに気づくと、却ってそう思いたくない自分が表に現れて、
「それじゃあ、言い訳にしかすぎないじゃないか」
と、もう一人の自分を叱責する。
叱責された自分は、そこで言い訳ができなくなっていた。その時から、頭の中に抱いている二人のうちのどちらが本当の自分なのか、分からなくなってしまっていた。
スナックの記憶が次第に薄れていく頃だったが、もう一度あの場所に行ってみることにした。
朝からそのつもりでいたわけではない。仕事を終えて家に帰ろうとした時、乗った電車が前スナックに行った時と同じ時間の電車だったのだ。駅を降りて前と同じように、今度はしっかりとした目的地を目指して歩いている。一度歩いている道なので、近く感じられるものだと思ったが、歩けば歩くほど、遠ざかって行っているような不思議な感覚を覚えた。
足元から伸びる影を、今まで意識したことはなかった。夜になり、街灯の明かりだけでできた影が、これほど気持ち悪いとは思ってもみなかった。気持ち悪い理由は、想像していたよりも、影が大きく、そして細長かったからだ。
――まるで足元の影を追いかけるようにして歩いているようだ――
そう思って歩いていると、今度はさっきのように、なかなか進まないということはなかった。
――気が付けば、こんなところまで歩いてきていたんだ――
と感じさせたが、この思いは自分が考える挙動に矛盾しているわけではないので、安心することができる。
歩くということが、足を重たくするのだということに、いまさらながらに気が付いた。影を意識するまでは、まるで雲の上を歩いているかのように、足に疲れはおろか、歩いているという感覚すらなくなっていたからだ。
――影が、スナックまで案内してくれる――
自分の影であるにも関わらず、違う存在であった。陰とは生きているものではなく、
「自分の身体が光という媒体を使って新たに作り出された幻影」
だと思うことで、離れているはずのない足元を、もし見下ろしていれば、離れていたという奇跡のような出来事を見ることができたような気がする。
足元を見てみたかったのだが、見ることはできなかった。それだけ影というものに、恐怖を感じていたのだ。
「この角を曲がれば」
そこには、いかにも場末のスナックがひっそりと建っているはずだった。
「あれ?」
間違いなくここだったはず、その場所は完全な更地になっていて、雑草が結構高いところまで生え揃っていた。
「数週間やそこらでこんなになるはずなんかない。少なくとも数年は放置されていたはずだ」
と感じた。
だが、驚愕が恐怖に変わっていく反面、どこか安心した気分になっていたのも事実だった。
「もし、ここに店があったら、俺は扉を開けるだろうか?」
あの日は、前を歩く女性に引き寄せられるようにやってきたこの界隈。あたりの様子に変わりはないが、目的地であるスナックがないことで、まったく違う場所のようにしか思えない。
――地理的にまったく違った場所というよりも、同じ場所なのに、違う世界だと言われる方が、説得力を感じる――
と思えた。
自分を引き寄せる女性。彼女によって引き寄せられ、この店に来たことがある人というのは、結構いたのだろうか?
引き寄せられた人には、その人のためだけの店が用意されている。つまり、次元は彼女に引き付けられてこの店を訪れた人の数だけ存在する。
――俺は何人目だったのだろう?
二番目であるならば、三番目であっても四番目であっても関係ない。しいて言えば、
「自分がその最後であるなら、一番最初に訪れたのと同じくらいに価値のあることのように思える」