始まりの終わり
ただ、ママさんはその男性を意識していないように最初は感じられたが、ちょくちょく視線を浴びせているのを横目にも感じられた。
横から見ていて感じるくらいなので、視線を浴びている本人が気づかないわけはないだろう。
それでも男性は意識していない。むしろ、浴びせかけてきている視線を跳ねのけるほどの気を放っていると言ってもいいくらいであった。
――まるで結界だ――
この店に入った時に最初に感じた扉を重たくさせた湿気、それはこの男性から滲み出ているものに思えてきた。
――気配を消しているはずなのに、結界のようなものを作ったり、人の視線を跳ねのけたり、そのオーラが扉を重たくする湿気のようなものに繋がっているのかも知れない――
と感じた。
――俺はとんでもない店に飛び込んでしまったのかも知れない――
と思ったが、
――しょせんは他人事、もし居心地が悪ければすぐに店を出て、二度とこの店の敷居を跨がなければいいんだ――
と、自分に言い聞かせた。
しかし、それは最終手段で、最初からそんな気持ちになるなど、思ってもいない。それよりも、入ってきた時より今の方がワクワクしている自分がいることに気づいた。奥で一人呑んでいる男性、まったく自分とは関係のない人だと思っていたが、どうもそうではないことを感じさせる何かがあった。オーラを感じたとでもいえばいいのだろうか。
「あ、いらっしゃいませ」
洋一が店に入ってどれくらいしてからだろうか。お待ちかねの、
――追いかけてきた女性――
が、奥からやっと出てきた。
さっきまでのシックな服とは違い、白いワンピースに着替えていた。少し暗めの店内には、ちょうどよく映えていた。
「お客さん、初めてですよね?」
彼女は、奥に座っている常連と思しき男性をチラ見してから、洋一におしぼりを手渡していた。最初のおしぼりはママからもらったが、挨拶代わりだと思うと、素直に受け取ることができた。そのおかげで、今店に入ってきたかのような新鮮な気分になれて、ありがたかった。
「ええ、このあたりに入り込むのも初めてなんですよ」
「そうなんですね」
と言って、軽く含み笑いをしたかと思うと、ママと意味深な目配せをしたように思えた。そして、次の瞬間、奥の客に鋭い視線を浴びせたかと思うと、一瞬金縛りに遭ったかのように彼女の身体が凍り付いたように思えた。
――まるで時間が止まったかのようだ――
以前、見た映画で、時間がゆっくりと進んでいるシーンを描いたものがあったが、その映画の雰囲気に似ていた。
最初は、映画を見た時、
「時間が止まってしまったというシチュエーションなのかな?」
と思ったが、実際は普段の一秒に五分くらい掛かるような、超スローモーションで動いている世界だったのだ。
「世界が凍り付くのは、時間が止まったからではない。止まってしまったかと思えるほど、ゆっくりにしか時間が過ぎていかないからだ」
というのが、映画のSFチックなところのオチであった。もちろん、それが映画のメインテーマではないが、わきを固めるテーマとしては十分であろう。
「完全に時間が止まった世界というのは、どんな感じなんだろう?」
それは、どんなにあがいても、我々が入り込める世界ではないのかも知れない。必ず進んでいく世界でなければ、理解できないものなのだろう。
いろいろな思いが頭をかすめていた。
――ひょっとすると、向こうを向いている男性のあの場所だけが、時間の進むスピードが違っているのかも知れない――
そんな発想、いや、妄想を抱いていると、こちらを振り向こうとしない男性の表情が浮かんでくるようだった。
――あの顔は、鏡に写った自分の顔?
そんな妄想を抱くと、
――もしこの店に入ったのが自分でなければ、その時に入ってきた人の顔になっているのかも知れない――
顔自体のっぺらぼうで、気にしているその人の妄想が顔を作り出す。つまりは、いつの間にか自分の顔を思い浮かべてしまっているのかも知れない。
しかし、ここで不思議に感じられるのが、
――普通自分の顔というと、鏡のような媒体がなければ見ることができないので、一番自分の顔というのは、普段から見ることがないもののはずだ――
それなのに、意識するのは自分の顔だというのは、その男の発するオーラが、普段では意識していない自分が発するオーラと同じものだということを意識しているからなのかも知れない。
いろいろなことを考えているうちに、
――俺って、妄想しても、妄想を膨らませることはなかったはずなのに――
と感じていた。
妄想を膨らませるというのは、横に広がる膨らませ方で、今度のように発想を広げていくものではない。横に広がっているというのは、同じ次元で、例えば時間が進んで行ったり、まわりの人との絡みだったり、自分が書いているシナリオの発想だった。
しかし、妄想を膨らませるというのは、自分の中でいちいち納得させながら、新たな世界を創造しているような妄想である。
そこに他人が介在することはありえない。
ということは、
「そこにいる後ろ向きの男性は、自分自身ではないか?」
と思うのは自然なことだと感じた。
「そういえば、のっぺらぼうというのは、どういう発想から来たんですかね?」
この話は、三十代の頃馴染みにしていたバーで、誰かがしていた話だった。洋一もその話に乗っかって、
「どうなんでしょうね? 最初から顔がなかったのか、それとも、元から顔はあって、何かの呪文か祟りで、顔をなくしてしまったか……」
「前者だとすれば、その人自身が妖怪だということになりますね。もし、後者なら、その人は人間で、妖怪に何かされたという発想でしょうか?」
「単純に、そうだと言い切れるのかな?」
「どういうことですか?」
「前者はそうかも知れないけど、後者は、その人が最初から人間だったという発想はまた違うような気がするんですよ。妖怪の掟のようなものがあり、それを破ったことで、その妖怪は顔をなくしたと言えなくもない」
「そうですね。でも、発想からすれば、かなり薄い気がしますよ」
「でも薄くても可能性がある以上、考えないわけにはいかない。否定するのは簡単だけど、否定するにしても、納得のいく否定の仕方をしないと、考え方が行き詰った時、前にも後ろにも行けなくなるような気がしますよ」
「どちらにしても、私が思うのっぺらぼうの正体というのはですね」
相手は、少しもったいぶっていた。
「ええ」
「それは、元々その人には顔がないということであり、逆を言えば、どんな顔にもなることができるということですよ。だから、のっぺらぼうというのは人間であるはずがないというのが、私の考えなんですよ」
「なるほど、確かにそうかも知れませんね。でも、そう考えると怖いですよね。誰にでもなれるということは、本人の知らない間に、何をされるか分からないということですからね」
「ええ、そういう意味では、妖怪の中では大人しいかも知れませんけど、怒らせると一番怖い存在になるかも知れませんね」