始まりの終わり
かといって、バーに赴くような感覚はなかった。
三十代の頃に行っていたバーは、確かに自分の馴染みの店の条件を十分に満たしてくれていたが、常連になって通えば通うほど、
――どこかが違う――
と感じさせられた。
それが何なのかまったく分からない。それを思うと、洋一は心の中で寂しさが込み上げてくるのを感じた。
――自分の思い描いていた孤独の楽しさがバーにはあったと思ったのだが――
そう思ったのは、四十代になって実際に孤独を楽しめていた時代とどこか違っていることに気づいたからだ。
バーに行かなくなったのは、そのことに気づいたからで、それから少しして、居酒屋に通うようになった。
孤独を楽しんでいる洋一に、居酒屋はまったく違う世界に感じられた。
ただの喧騒とした雰囲気というだけではなく、苛立ちを感じさせるものだった。それぞれのグループが勝手に盛り上がっていて、いろいろな人の話し声がこれほど耳に煩わしく感じられるなど、考えられなかった。まるで受験勉強を居酒屋でやっているような思いで、要するに、集中できないのだ。
――一人で孤独を楽しんでいる時、何に集中しているというんだ?
と思ったが、確かに一人で孤独を楽しんでいる時というのは、何かに集中しているような気がした。
それを思うと、居酒屋よりも、もっと他にないものかと考えたが、一人でゆっくりできるところはやはりなかった。
そんな時期が数年続いた。本人は数年も続いたという意識はない。せめて数か月くらいのつもりだった。
そのスナックを見つけたのは、本当に偶然だった。
会社が終わっていつものように電車に乗って最寄りの駅に降り立った時、どこかで見たことのあるような女性が、目の前を歩いていた。後姿だけなので勘違いだとは思ったが、それでも追いかけないわけにはいかなかった。
彼女が歩いている後ろを追いかけていく。彼女の歩くスピードは、それほど遅いものではなく、男の洋一が早歩きでついていくのがやっとだった。
彼女は黒いワンピースに身を包み、颯爽とした身のこなしに感じられた。おそらくどこかで見たことがあると思ったのは、その颯爽としたいで立ちからではなかったかと思っていたが、そう思うと、余計に気になって仕方がなくなっていた。
スリムな雰囲気に背の高さは高く感じられたが、実際にはそうでもないのかも知れない。想像がどんどん膨らんでいくのも楽しい限りだった。
自然と視線が彼女のお尻に向かっているのを感じると、自分が男であることを再認識したと同時に、彼女の特徴がヒップにあるのだと思えてきた。
自分の記憶の中でヒップに特徴のある女性を思い出してみたが、思い出すことはできなかった。ヒップが気になる人はいなくもなかったが、一番の特徴をヒップに感じる人はいなかったのだ。
もっとも、今は後姿しか感じていないのでそう思うのかも知れない。早く横からや正面からの姿を見てみたいと思った。その間にいろいろ想像してみたが、そのどれでもないような気がしてきたのは、後姿が印象的過ぎるからであろうか。
気が付けば洋一は、その女性の後ろを追いかけていて、普段立ち入らないところに入り込んでいた。駅を降りて自分の家とは反対方向で、普段から通ることのないところだった。
気が付けば、彼女は場末のスナックに入り込んでいった。彼女の姿が扉に吸い込まれてから急に我に返った洋一は、自分がどのようにしてここまで来たのか、意識もなかった。
「このまま帰ってしまおうか?」
とも考えたが、すぐにそのことを打ち消している自分に気が付いた。我に返った瞬間から、スナックに入ることは確定していたような気がしたからだ。
スナックに入りたがっている自分を否定することはできなかった。ゆっくりと歩き出した洋一は、さっきまでと違い、足取りがかなり重たくなっていることに気が付いた。
「完全に我に返った証拠だな」
と感じたが、足取りの重たさとは逆に、気持ちがワクワクしているのが嬉しかった。
理由が何であれ、スナックに入るのがこんなにワクワクするものだったということを、初めて感じるはずなのに、前から知っていたような気がしているのはどうしてなのだろうか?
少し重ための扉を開いた。見た目も重たそうだったが、開いてみると、さらに重さを感じた。鉄の扉に感じられるほどだったが、洋一の印象としては、
「木でできた扉が、相当湿気を帯びて、そのために、想像以上に重たく感じられるのではないか」
と思えたのだ。
扉を開けた時、
「暖かい」
と思ったが、開けたその一瞬だけ、何か冷たい空気が溢れ出してきたような気がしたのだ。
「いらっしゃい」
さっきまでの彼女の後姿を想像していたので、カウンター越しにいるおばさんと思しき女性を見て、一瞬がっかりした。相手にもその思いが伝わったのか、
「はあ」
と、ため息をついたような気がしたのを見逃さなかったが、素早く顔を背けたので、意識していなければ、普通なら分からなかっただろう。
――どうやら、こんな経験は初めてではないようだ――
若い女性、たぶん、店の女の子だろうが、彼女目当てに入ってきた客は今までにも何人もいたのだろう。店としては、客を呼んできてくれて嬉しいのだろうが、オンナとしては複雑な心境だ。ため息の一つもつきたくなるというものだ。
他に客も店の人もいないことから、目の前の女性はここのママさんなのかも知れない。最初こそ、気になっていた女性の面影との違いから、露骨にがっかりさせられたが、よく見ると、その女性にも大人のオンナの魅力が感じられた。
――嫌いなタイプではないな――
ため息を目の前でつかれてしまったことで、少し嫌な気分になったが、それも元はと言えば、入ってきた時の自分が、きっと露骨にがっかりした顔をしてしまったからだろう。そんな思いを何度もしている女性だとすれば、やるせない気持ちは溜まったものではないに違いない。もし自分が彼女の立場だったらと思うと、同情に値する気がしてくるのだった。
――おや?
最初は、店に入った時、客は自分一人だと思っていたが、よく見ると、奥のテーブルに男性が独りで呑んでいた。こちらを振り向くこともなく、完全に気配を消しているように思え、ママさんもその人を意識することもなかった。きっといつものことなのだろう。
時間的にはまだ八時過ぎくらいだ。普通なら開店すぐくらいなのに、その人の微動だにしない雰囲気は、かなり前からそこにいたような気がする。
――その人がその場所から離れても、その場にその男性の影のようなものが残っていてもおかしくないような気がするくらいだ――
根付いていると言ってもいいくらいだった。そう思って見ていると、その男性がその場所にいることを、昔から知っていたように感じられた。
――最近、こんな感覚になることが多いな――
初めて見る光景のはずなのに、以前から知っていたような気がするという、いわゆる「デジャブ現象」である。
別に年は関係ないのかも知れないが、デジャブを感じ始めたのは、今から五年ほど前からで、一度感じてしまうと、その思いはいつどこで感じても不思議のないものに思えてはらなかった。