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始まりの終わり

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――アイドルに自分にない妄想を求める――
 というものだったが、今は、与えられるような気がしてくるから不思議だった。
 彩名と知り合ってしばらくして、洋一は喫茶店に行かなくなった。二人で表で会うようになったからだ。洋一は、
「まるで学生時代に戻ったようだ」
 というと、
「私も洋一さんといると、とても新鮮なの」
 と、彩名は答えてくれた。
 彼女だと思ってはいけないという感情を抱きながら、
――この思いは表に出すわけにはいかない――
 と思っていると、そんな思いなど、彩名にはすぐにお見通しのようで、いつもニコニコ笑っている。
 しかし、ふとした時に見せる笑顔には、
――大人でも子供でもない。それでいて、これ以上妖艶な笑顔はない――
 と思わせるところがあった。
 そんな笑顔にも、惑わされては「いけない」という思いを抱きながら、我に返ると、今までの自分ではないことに気づかされた気がした。
 一気に二十代に若返ったような気がしていた。
――毎日が何をやっても楽しかった時期――
 それが二十代だったのだが、それ以上に、一番不安と背中合わせだったのも、この時期だったように思う。
 不安を感じていたのは二十代だけではない。十代も、三十代もそうだったし、今でもそうだ。しかし、二十代の不安は少し違っていた。その裏に、
――何をやっても楽しい――
 という思いがあったからだ。
 逆に三十代になれば、不安というものが、何かと背中合わせであるということは分かっていたが、何と背中合わせなのか分からない。れっきとしたものがなければ不安は他人事に変えてしまうことができる。どうしても楽な方に逃げたくなるのは人間の性のようなもの、他人事だと思えるのであれば、そう思った方がよかった。そう思うと、不安だった気持ちがスッと気が楽になり、急に時間の流れが速くなってきた。
「時間があっという間に過ぎている」
 と感じるのは、自分を他人事にして逃げているからなのかも知れない。
 人によっては、
「客観的に見ているだけだ」
 というだろう。そういって自分を納得させた方が、必要以上に神経を使わなくても済むからだ。しかし、洋一は他人事だという感覚にはなれても、
「客観的に見ているからだ」
 という思いにはなれなかった。言い訳にしか聞こえないからだ。
 言い訳も生きていく上の手段としては正当なのかも知れないが、言い訳にしか見えなかったり聞こえなかったりするものは、正当とは言いがたい。洋一にとって言い訳だけにまみれるのは、自分で到底納得のできないことだった。
 彩名と一緒にいるようになって、生活のリズムも完全に変わった。
「考え方が変わったから生活のリズムが変わったのか、それとも生活のリズムが変わったから考え方が変わったのか、どっちなのだろう?」
 洋一は、そんなことを考えていた。両者は明確な違いがある。
 考え方が変わったから生活のリズムが変わったのであれば、そこには自分の意志が働いていることは明白で、生活のリズムが変わったから、考え方が変わったというのは、本当に自分の意志が働いているか、不明なところも多い。しかし、少なくとも、リズムが変わったことで考え方が変わったというのは、何かの力が働いたということであるのだから、自分の中に何かの力を生むという潜在意識が備わっていたことを示すであろう。そういう意味では、どちらであっても、「自分の意志」という意味では大差はないような気がする。洋一にとって生活のリズムも、考え方の一つに当たるのだろう。
 四十歳になった頃からだろうか。生活のリズムについてあまり考えないようになっていた。
「ものぐさに生きているわけではないが、立ち止まって我に返る機会がめっきりと減ってしまった」
 と思うようになっていた。
 ただ、自分が過ごした二十代と、今の二十代とでは、時代が違っている。考え方の根本が違うということはないと思うが、環境が変わると、おのずと見えてくるものも違ってくるだろう。
 同じものを見ているとしても、見え方も違ってくるであろうし、自分が二十代だった時代には見えていたものが、今二十代になったと仮定した時に果たして見えてくるだろうか?
「若返った気持ちになる」
 ということは、単純に考えられることではないような気がする。今の自分に、どれだけ妄想する力が残っているかということでもあるだろうし、下手をすると、相手に合わせてしまうことにもなりかねない。
 相手が自分を慕ってくれているのであれば、相手に合わせるということは、最もしてはいけないことではないだろうか?
 分かっているつもりではあるのに、果たして行動が考えについてくることができるであろうか?
 洋一は、人に合わせるということがどういうことなのか、今までの人生であまり深く考えたことがなかった。そのことが何を意味するか、五十代になってやっと分かってきたような気がする。自分が若かった頃に、年上の人をどのように見ていたのかを思い出してみると、ゾッとするほどの恐ろしさに見舞われたのだった。
 洋一は、元々人に合わせるということが嫌いな方だった。
 特に大学時代に、広い講義室の中で、まわりを見渡すと、いつも同じ席に皆座っているような気がする。いくつかの集団に分かれていて、それはさらに大きな集団を作っている。
 一番前でノートを取っている連中。真ん中あたりで、講義を聞いているのか、それとも他のことをしているのか、ハッキリと分からない連中。さらには一番後ろで、講義室から出たり入ったりしているよく分からない連中。どの連中も異様な雰囲気を醸し出している。そんな連中を教壇の上から一目瞭然に見ることのできる教授は、どんな思いなのだろう。きっと、教授も自分の研究や立場のことで頭がいっぱいで、学生などどうでもいいと思っている人が多いのかも知れない。
 講義を一歩出ると、集団は息を吹き返す。講義室では集団を作ってはいるが、まったく話もしない連中が、講義が終わると堰を切ったように和気あいあいだ。
 当たり前のことなのだが、洋一には、それを当たり前のこととして受け止めることはできない。
――皆、相手に合わせようとしているんだ――
 講義が終わって、堰を切ったように話している連中を見るとそう思った。そのため、楽しそうにしている姿もどこかウソ臭く感じられ、白々しさに気分の悪くなるくらいになっていた。
 その頃から、
「相手に合わせる人」
 を毛嫌いするようになった。
 元々、群れを成して行動することを嫌っていた洋一は、
「自分は人とは違う」
 という考えの下、気が付けば、相手に合わせる人間を毛嫌いするようになっていたのだ。それは、人に合わせることがウソ臭さと、欺瞞に見えたからだった。
「人に合わせることは、相手の軍門に下ること」
 とまで思うようになったのは、やはり、大学時代の講義室と、講義室を一歩出てからのそれぞれの人の態度の違いを見てからだった。
 本人たちがどこまで意識しているか分からないが、少なくとも、洋一が感じているほど極端ではないだろう。それだけ余計に、
「俺は絶対に人に合わせたりなんかしない」
 と思っている。
 ただ、一つ大きな懸念があった。
作品名:始まりの終わり 作家名:森本晃次