短編集13(過去作品)
何とか就職も決まり、大学卒業まではゆっくりできた。しかしそんな時期でも期待よりも不安の方が大きく、しかも卒業が近づくにつれて不安が次第に大きくなるのだ。
就職してから半年間は研修期間であった。営業として入社した私は、現場を知ることが最初の仕事だったのだ。現場を理解せずに営業に就くということは、まるで自分で自分の首を絞めるようなものなのだ。
営業所での研修期間が始まる。
さすが面接を受けた本社と違い、現場は皆が作業服である。私が本気で好きになった女性。彼女はその現場の人を相手にしている事務員だった。それが恵子である。
――大人しそうな人だな――
というのが第一印象だった。ショートカットがよく似合い、机で下を向いて伝票整理をしている横顔を、倉庫から垣間見ることができる。さりげない様子に清楚な雰囲気を漂わせているのは、まわりが現場だという環境のせいだけではないようだ。
初めて声を聞いたのは二日目くらいだっただろうか?
自分としては意識していることすら無意識だったのだが、それに気付いたのは、初めて恵子の声を聞いた時だった。
「伝票、これしっかり見てくださいね」
私が出荷を間違え、検品の時に初めてその商品が欠品していることに気付いたので、至急伝票訂正が入った時のことだった。怒っているわけでもなく、それでも言葉の中に厳しさがあった。
声の感じは最初聞いた時、ハスキーに感じた。しかし思ったより声のトーンは高く、私好みの声である。声で感じるなど今までなかったが、ひょっとして初めて声で相手を意識したのではないかと思えるくらいに聞こえてきた声に痺れていた。
雰囲気からは想像できないような声に新鮮さを感じた。清楚で日本美人的な雰囲気を感じていたのだが、私を見上げるその顔は、下を向いて仕事をしている時の雰囲気とは少し違う。
――きっとアゴのラインに魅力を感じているのかも知れない――
と感じていた。見上げるその顔の中で最初に視線が行ったのが、唇である。リップクリームで濡れた唇がかすかに光って見える。それも少ししゃくれたようなアゴが、唇の魅力を引き出しているようだ。
――軟らかそうな唇だ――
間違いなくそんなことを感じていた。きっと視線は話していながらでも唇に集中していただろう。怒られているのだから何と不謹慎なことだと思いながらも、私が見つめる唇は淫靡に動いていた。決していやらしい目つきなどしていないと思いながらも、恵子の顔全体を見るのが怖かった。特に唇に目が行ってしまってからは、目を見る勇気はなかった。
時間的にはあっという間の会話だったが、気がつけば、手の平にグッショリと汗を掻いていた。もちろん、こんなことは初めてである。緊張とは別に何かを感じていた。それが人を好きになることだと感じたのは、少ししてからだった。
会話にならないような初めての会話。その時に恵子は私にどんなことを感じたのだろう。付き合い始めてから、そのことを聞いてみると、
「可愛いって思ったわ。男性に可愛いというのは失礼なことね」
そう言ってはにかんでいた。
はにかんだ女性の仕草など、テレビドラマでしか見たことがない。
――本当にあんな表情をするんだ――
それが実感だった。その表情に厭味などなく、サラリとしていることは私を喜ばせてくれた。
それから夕食に誘うまでに、時間は掛からなかった。ちょうどその目は私も定時に仕事が終われる日で、私が誘うと二つ返事でオーケーしてくれた。
まるで私の誘いを待っていたかのようである。一度行ってみたいと思っていたレストランで、入り口の扉を開いてから、絶えず私の後ろに隠れるようについてきている。
恵子は女性の中では背が高い方かも知れない。私の背が高いこともあって一緒にいれば目立たないかも知れないが、スリムな体型は、一人でいると身長の高さを思わせるだけの雰囲気を持っていた。
「私、男性の背中を見つめるのが好きなの」
食事をしながら恵子が私に告げる。
「どうしてだい? おとうさんでも思い出すの?」
恵子が一人暮らしをしていることは知っていた。田舎から出てきて短大に入り、そのまま地元に帰ることなく就職した。そのため、父親を思い出すのかと思っていたが、私の言葉を聞いて少し俯いたまま顔を上げようとしなかった。
「どうかしたの?」
何となく気まずい雰囲気に戸惑いながら訊ねた。俯いてしまった恵子を見た時、すでに予感があったのかも知れない。
「実は私、父親を早く亡くしたの……」
――なるほど――
心の中で呟いた。何となくまわりのOLたちとの雰囲気の違いを彼女の中の孤独に感じていたのだが、その原因は分からないでいた。言われてみれば納得がいく。彼女に嫌な思いをさせてしまったのではないだろうか? とにかくこの重い雰囲気を何とか払拭しなければならない。
「僕がいるからね」
思わず小声で呟いて、「しまった」と思ったが、後の祭りだった。聞こえてなければいいがとも思ったが、小さく頷いて私を見つめる恵子の目は、
「分かりました」
と言わんばかりで、嬉しくもあったが、恥ずかしくもある。
元々私は物事をハッキリ言う方だ。その私が小声で聞こえないことを願っているなど私らしくない。そんな思いがあってからか、逆に告白への心構えが自然と出来上がった。
食事が終わって、そのまま近くの公園に寄ってみた。
「風が気持ちいいわね」
そう言う恵子の言葉を聞きながら、どちらからともなく、公園のベンチに腰掛けたのだ。
隣にある木の枝が揺れていた。先ほどまでそれほど感じなかった風だが、恵子の言葉に触発されたかのように揺れている木を見ていると、髪の毛がサラサラ靡く感じに気持ちよさを覚えていた。
「私、昔から公園のベンチって好きだったの。昼間のポカポカ陽気も好きなんだけど、男の人と夜にこうやってお話しながら座っている情景を思い浮かべてたような気がするわ」
「憧れのようなものなのかな?」
「そうね、でもそんな人は今までいなかったわ。付き合った人はいたんだけど、でも公園で一緒にいてくれるようなタイプじゃなかったわね」
「どういうことだい?」
いきなり恵子が言い出したことに相槌を打たないと、私の予想をはるかに超えた話になりそうで怖かった。
「きっと私が子供だったのね。まわりの人が、特に男性は皆大人の人に見えていたの。私の憧れだったのかも知れないわ」
早く父親を亡くした恵子はコンプレックスがあるのかも知れない。父親のような人の背中を見て過ごしたいという気持ち、分からないでもない。そんな恵子が私は好きになっていたことを、その時に興奮しながら話を聞いていたことからハッキリと自覚することができたのだ。
恵子は私よりも二つ年上だった。しかも会社ではもう四年近くも勤務しているベテランに近い存在だった。いわゆる仕事上では大先輩である。
――歳と仕事の年数と、どっちを意識するだろう?
作品名:短編集13(過去作品) 作家名:森本晃次