短編集13(過去作品)
「なかなかお洒落なお店ですのね」
ゆっくりとあたりを見渡した美穂は、すっかり気に入ったようだった。
「気に入ってくれて嬉しいよ。僕はこの店では学生時代からの常連でね」
洒落た店を知っていることで、私を誉めてくれた美穂には、かなり今まで洒落た店を紹介してもらった。私も一つくらい彼女に紹介したい店があるということで連れてきたのが喫茶「ピノキオ」だったのだ。
その時、客は昼を少し回っていたので、あまりいなかった。しかも日曜日の昼下がり、学生中心の店なので、一番お客さんがいない時間帯なのかも知れない。
窓際の席に座っているアベックがどうやら言い争いをしているようだ。年齢的には二十代後半といったところだろうか、黙っていれば落ち着きのあるカップルである。
最初こそ顔を突き合わせるようにして小声で喋っていたが、次第に声が大きくなってくるのを感じた。いくら小声とは言え、寸前まで顔を突き合わせるがごとくテーブルに乗り上げている様は尋常ではなく、そんな二人を気にしていたのは私だけではないだろう。
「ハッキリしない人ね、あなたって」
女性の罵声が聞こえる。最初、余裕のある顔をしていた男の側には、すでにその余裕はなく、オドオドとした様子は情けないくらいだった。すっかり脅えの入った男には、すでに言い返す力など残っていないように見える。
「いったい、何考えてるのよ」
間髪入れずに容赦のない女の声が静かな店内に響いている。
男の顔がみるみる青ざめていくのが分かる。どうやら、あまり気の強い男ではなさそうだ。しばらく聞いていると非は男の方にあるようだ。
――いくら罵声を浴びせられても言い返せない――
そんな雰囲気が漂っている。
「お願いだ、思い直してくれ」
かなりの罵声を浴びせられた後に、まるで蚊の鳴くような声で男がやっと一言返していた。しかし、その声には精気は感じられず、目も虚ろだった。
男は少し痩せ細っていたが、彫りの深い男で、女好きのする顔である。どうやら、彼女に隠していた浮気が発覚して、彼女に責められているところのようだ。
私は他人事として見ていた。他人事として見ていてもかわいそうなくらい男の表情に顔色はなかった。
一方的に責められる男性を見ていて、情けないという思いを強く持っていた。明らかに見ていて気持ちのいいものではないし、見苦しいに値するものだ。女性にしてもあまりにも一方的すぎて、とても普段の顔を想像するに至らない形相は、まるで鬼のようだった。
美穂の表情が気になった。さぞかし不快な思いで見つめているに違いないと思える。恐る恐る垣間見たその表情は確かに強ばっている。なるべく視線を逸らそうとしてもどうしても気になるのか、チラチラと見ているのがよく分かる。お互いに気になってしまって、会話がしばしストップしていた。
しばらくすると言いたいことを言ってスッキリしたのか、女性の顔色が元に戻っていくようだった。落ち着いてきて、真っ赤になった顔から次第に血の気が引いていくのを感じると、
――これほど色白の女性だとは――
と思えるほどの色白美人である。しかしあまりに落ち着いて見えるその顔からは、やはり怒ると怖いだろうことは想像ができるのだ。
男の方もさすがに一方的に責められっぱなしで真っ青だった顔に血の気が戻ってくる。さすがに浮気をしそうな顔と言っては失礼だが、キツネ顔のちょっといい男といった感じである。
しばし沈黙が続くと、二人の間での暗黙の了解なのか、ほとんど同時に席を立った。レシートは女性が持ち、レジでお金を払うと、後は普通のアベックとなって店を出て行く。その後姿が消えるまでじっと見ていた私に、美穂が話しかける。
「すごかったわね。あんなの見たの私初めてだわ」
そう言って、少し肩を竦める。
「僕だってそうさ。あんな場面が見れるなんて、さすがにビックリだね。修羅場にならなくてよかったよ」
「参ったな」という顔をする私に美穂はどう感じただろうか?
「でもね、私は女性だから、女性の気持ちも分かるのよ」
「どんな風に?」
「あなたは、あそこまで責めなくてもいいのでは? って思うでしょ?」
「そうだね、確かに浮気した男性も悪いんだろうけど、お互いに楽しかった時期があるはずだから、それを思い出せばあそこまで言うことはないと思うんだよ」
「それは男性の考え方」
少しキツめの口調になった美穂だったが、そんな時は真剣に聞いてあげないといけないことは分かっている。美穂は続ける。
「女性ってね、ある程度までは我慢するんだけど、その一線を越えるとなかなか我慢できないものなの。男性のように過去の楽しかったことを思い出すなんて余裕がなくなるというか、もうすでに冷めてしまっているのかも知れないわね」
「どんなに好きな相手でも?」
「ええ、そうね。好きな相手だからこそ、許せないってこともあるわね。許せることの限度を超えればの話だけれど、もちろんそこに個人差は存在するんだけどね」
美穂には、同じような経験があるのだろうか? 今までの美穂を見ていて、どうにも想像がつかない。聞いてみたいという衝動にも駆られるが、どうしても勇気がなく、聞くことはできなかった。
「男性の僕には分からないところだね」
という言葉に留まるしかなかった。
「男の人には不思議でしょう? たぶん、男性の方がそういうところでロマンチストなのかも知れないわ」
「未練がましいんではなく?」
「ええ、未練がましいなら女性の方が強いかも? でも女性は考えがまとまれば、とても冷静になれるものなのよ」
「熱しやすく、冷めやすい?」
「ええ、そうとも言えるかも知れないわね」
そういえば、そんな話を聞いたことがある。結婚した先輩社員から聞かされたことだが、先輩は奥さんとあまりうまくいってないらしい。
「お前も気をつけた方がいいぞ、女がロマンチックで、過去の思い出に浸ってくれるなんてことはないからな」
酒を煽るようにして呑んでいた先輩、見ているだけでこっちまで辛くなってくる。話の真意は経験していないので分からないまでも、その様子を見ているだけで、身につまされるものを感じたものだ。
そんな言葉が頭の隅で燻ぶっていたのだろう。美穂の話を聞いてすぐに思い出した。しかも女性である美穂からの話である、しかも一度聞いたことがある話であるため、説得力は抜群だった。
先輩の場合、誤解があって奥さんともめていたらしく、誤解が解け、解決したらしい。しかし一旦できてしまった不信感はいかんともし難く、それを振りほどくのはかなりな無理があるようだった。
そんな時に出てきた言葉が、
「男の場合は、過去のことを振り返って、楽しかったことを思い出すと、そこからの感情で許すこともできるらしいけど、女性は無理なの。女性の場合はギリギリまで我慢して、何とか相手の気持ちを分かろうとするんだけど、その我慢が限度を越すと、そこから先は信じられなくなる一方なのよ」
作品名:短編集13(過去作品) 作家名:森本晃次