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短編集13(過去作品)

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 顔を見ようと一生懸命に覗き込む。それを分かっていないはずなのに、彼女は私に決して顔を向けようとはしない。まるで私に意地悪をしているようで、口元を見ると、少し歪んで見える。
――淫靡な微笑み――
 今まで想像したことはあるが、実際に見たのは初めてである。大人の女を初めて感じたことがあるとすれば、それが最初だったに違いない。
 彼女には私の存在が分かっているのだろうか?
 そんな気がして仕方がない。だが、知っていながら顔を決してこちらに向けようとはしない。わざとなのか、それとも無意識なのだろうか。
 普通、存在を感じるがそれが見えないものであるとするならば、少なくとも気持ち悪くて、顔に怯えが走るはずである。そういえば、一番最初に垣間見ようとした時の彼女は、私の視線から意識して逸らしていたようにも思える。だが、それはあとから考えると一瞬で、その後に感じたのが淫靡な笑みだったのだ。
 それも一瞬だったのかも知れない。彼女の表情が何度か変化していたのである。最初はその表情がずっと続くのではないかと思えるほど目に焼きついていた気がしたのだが、後から考えると、すべて一瞬だったような気がする。まるで夢を見ていて、覚めるにしたがって感じる夢の内容とその長さを感じるようである。
 しかし最後に感じた表情は、ずっとそのままだった。むしろ一番頭に焼き付いている表情は最後の表情で永遠に、そのまま続くのではないかと思われたくらいである。
――包み込むような暖かさのある表情――
 とでもいうべきか、その表情にはさまざまなことを感じさせる要素が含まれていた。
 それまでの表情とは打って変わって、まるで待ち人に会えたような嬉しさが漲っているようにも感じたし、すべてのものを受け入れようとでもするかのような余裕のある表情にも見えるのだ。
――見ているだけで吸い寄せられるようだ――
 その場から立ち去れなかった理由が、その表情を見てしまったからだと思う。他に人がいたのも分かっているが、他の人はまるで何もないかのように、私の存在に気付いていないようだ。やはり見えない壁のようなものがあり、気付いているとするならば、彼女だけなのだろう。
――お母さんもああいう顔をしてくれたらいいのにな――
 子供心にそう感じた。母親は厳しい人だった。時々理不尽なことをいう母親だったが、それはすべて世間体を気にしての言葉だった。やれ、服装態度がどうの、誰々と遊んではいけない、
――お願いだからお父さん、お母さんに恥を掻かせないでね――
 これが口癖だった。
 そんな言葉は聞き飽きた。私だって恥を掻かせようなどと毛頭考えていない。それなのに、なぜ執拗に言うのか私には分からなかった。子供が友達と自由に遊ぶのに親があれこれと口を出す。これほど醜いものはないと感じていたのだ。
 それだけに彼女の表情は嬉しかった。何でも包んでくれそうで、私の気持ちをすべて分かってくれているような笑顔なのだ。そこには安心感があり、信頼することの素晴らしさを彼女なら教えてくれそうなそんな表情だったのだ。
 それまでの私は少しひねくれたこともあったかも知れない。親への反動もさることながら、どちらかというとその他大勢というのが嫌いだったこともあって、皆と一緒に遊んでいても私一人が浮いている気がしていたのだ。
――少し距離を持って接する――
 そんな気持ちになっていたのは、その方がまわり全体を見れるからだと思っていたからなのだろう。もちろん子供の頃にそんなことまで分かるはずもなく、大人になって思い出しながら考えた結論である。大人になってから子供の頃のことを思い出すことも珍しくない。いや、ずっと考えていたこともあるくらいだ。
 その女性の年齢について考えたことなどなかったが、清楚な感じからまだ十代だと思っていた。しかし今から考えると、若奥様の雰囲気がないでもない。それは今思い出そうとするからであって、現在の私の願望が入っているのかも知れない。奥様が小さな子供を見つめる目、それが包み込むような、そして余裕のある表情のような気がしてくるからである。
 また、私が東京に帰ってから行こうと思っている洋館にも同じように若奥様が住んでいる。まだハッキリと見たことはないのだが、建物の中に入っていく車の後部座席を一瞬垣間見たことがあるくらいだ。だが、まるで黒い車体に浮かび上がるような白い服装や帽子は嫌でも私の目を引き、それが子供の頃の記憶を呼び起こしたことに間違いないのだ。
 建物も子供の頃に感じたほどの大きさは感じなかったが、それは成長した目で見たからで、後ろに見える森も記憶にあるのとそのままで、まるで子供の頃にタイムスリップしたような錯覚に陥っていた。
 子供の頃の記憶が、またしてもよみがえる。
 森が青々と茂っている。風もないのに、煽られて見えるのは決して錯覚ではない。風がないように思えて時々寒気を感じるのは、緊張から風を感じることができなかったからに違いない。それに今さら気がついた。
 子供の頃不思議だった、風もないのに靡く髪の毛、それも、自分の緊張が招いた錯覚だと考えれば辻褄が合う。
 何回かそんな光景を目の当たりにしたような記憶があるのだが、それが何回なのか想像もつかない。ひょっとして一回だけだったのが想像を膨らませるうちに何度も見たような錯覚を生んでいるような気がしてきた。特にハッキリと顔を見た記憶がないことから、たった一度のインパクトの強さが、深い印象として記憶の奥で増幅されているのかも知れない。
 それからしばらくして、その洋館が空き家になっていることに気付いた。大きな屋敷なだけに、少しくらい草などが生え茂っていても不思議ではなく、実際に人が住んでいる時でも少し茂っているのが目立っていた。それが夏などのような蒸し暑い時に、空気を重くして、さらには轟音にも値するかのようなセミの声が、容赦なくあたりを包んでいた。
 さすがに、不気味な屋敷を近所の人は気にはしていただろうが、それはあくまで好奇心からで、実際に中でどういうことが行われているかなど、恐ろしいと思っている人も多かっただろう。
 実際に近所つきあいなどもまったくなかっただろう。いつも門の中から車に乗り込み、そのまま走り去るのである。近所の奥さん連中が取り付くしまもないというものである。
 屋敷の主人というのが、これまた誰とも面識なく、どんな人物であるか、誰も知らなかった。財界はもとより、政界にまで幅を利かせることのできる人物らしいという噂は耳にしたが、どんな人となりなのかを知っている人は近所にはいないようだったのだ。
 しかし思いも寄らぬことから屋敷の主人の話題が出た。
「あそこのご主人さん、ずっと寝たきりだったんですってね」
「あそこって?」
「ほら、例の幽霊屋敷のご主人さんよ」
 主婦連中の勝手な会話が耳に入ってきた。最初から興味を持って聞いていたわけではない。幽霊屋敷という言葉が出てきてピンと来たのだ。
――幽霊屋敷――
 まさしくそうである。子供の間でも幽霊屋敷として認識されていたのは、その屋敷だけで、特に防空壕の跡や、屋敷の後ろに広がる森が、薄暗くて気持ち悪い西洋間を一層幽霊屋敷として引き立てていた。
作品名:短編集13(過去作品) 作家名:森本晃次