短編集13(過去作品)
急に女性キャスターの声に変わる。さすがに男性アナウンサーの低い声に比べ、少し乾いたような女性キャスターの声は少々大きくても耳に心地よさを与えてくれる。私はテレビを正面から見れるソファーに座り、その空間を独占している気分になってふんぞり返ったようなリラックスした姿勢で、モニターに集中していた。
「台風は明日未明宮崎県地方に上陸し、暴風雨を伴いながら、ゆっくりと東北東へ抜けるでしょう。明日昼前くらいまで雨と風が強く、予想される雨量は……」
――やはり、明日はすぐには帰れないかも知れないな――
夕方に帰りつければいいのだが、実は明日は早く帰れれば、そのままオフになる予定だった。オフになれば行きたいところもあり、そこに行けないことが残念でならないのだ。別に他の日でもよいのだろうが、せっかく出張帰りに寄るのが今までの恒例となっていたこともあり、寂しい限りだ。まるで子供のように諦めがつかないのは、行く予定にしているところが、子供心に戻っていつもわくわくしながら出かけているところだからだろう。
今、その場所を思い浮かべている。
そこは東京の郊外にあるところで、昔ながらの洋館造りである。庭も広く、塀も高く仕切られていて、さながら高貴な方の住まいだろうと思いこそすれ、歩いていてもあまり気にならなくなるところだった。それだけ私にとって別世界だと思っていたのだ。
夕日が似合うその場所……、というのも私が訪れるのは、決まって夕方である。向こうもそのつもりでいるらしく、
「あなたは夕日が似合う人」
と言われて、何となくむず痒い思いをしたのを思い出した。
風もないのに、ハラリと舞うように落ちてくる紅葉、そんな雰囲気の似合うその洋館に初めて入ったのが秋も深まった頃だったのだ。
――なぜ、立ち入ろうと思ったのだろう?
それまでも何度かその家の前を通りかかって、最初こそ、その大きさにビックリしながら歩いていたが、一向に変わることのない、ただ威風堂々とした佇まいを見せる洋館にあまり興味を示さなくなった。何となく生活感もなく、ただ冷たさのようなものを感じるだけだったのだ。暖かさなど微塵も感じられない、それこそ幽霊屋敷の佇まいである。
いつも通りかかるのは夕方だった。洋館の二階の窓に当たる夕日が眩しくて思わず顔を逸らしていたが、ある日気になる光景を目にしたのだ。
今まで人の気配のないと思っていた洋館に、一台の黒い車が入っていく。まるで社長などが使うロールスロイスだと思うのだが、気がついた時には後ろ半分しか見えておらず、そのまま門の中に消えていった。かすかではあったが。後ろに乗っていたのが女性で、和服を着ていたように見えた。きっとここの奥さんではなかろうか。それほど興味もなかったので、それからしばらくは車を見たことさえ忘れていたくらいである。
その時のことはあまりハッキリとは覚えていない。しかしそれよりも、はるか以前に同じような思いをしたような気がすることだけは覚えていた。
かすかな記憶の中に同じような洋館造りの建物を覚えていたからだろう。その時はあまり近くに家もなく、まわりが森のようになっていたことから、余計に重圧感を感じたものだった。子供だった私に好奇心はあったが、なかなか近寄れるものではなく、じっと遠くから見ていた記憶がある。ある程度の距離から見た方が、森の中に浮かび上がった洋館が幻想的な佇まいを見せるのだ。
あれも東京の郊外だった。
小さい頃は父親の転勤などで、しょっちゅう色々なところを転々としたので、いったいいつ頃のどこだったのかもはっきりとしない。いつ頃だったかということを思い出せばどこだったかということを、どこだったかということを思い出せばいつ頃のことだったかということを思い出せるような気がする。当時の東京にはまだそんなところがたくさん残っていたということだろう。
森の中を散策するのが好きだった。時には洞窟のようなものを見つけて入っていったような記憶があるが、あれはきっと戦争中に作られた防空壕の名残りではないだろうか?
私の発想はそれだけには留まらない。ミステリーが好きでよく読んでいたこともあって昔の伯爵か貴族が財にものを言わせて、作った道楽のようにも思えた。だが、その目的は我々凡人が、しかも子供の想像に値するものではない。だが、それを想像することは好奇心旺盛な年頃の私の感情を多いに煽ることではあった。何か淫靡な思いや、知らない世界に思いを馳せ、一人で悦に入っていたのを思い出した。
記憶の中に女性が一人、思い出そうとするが思い出せないで、イライラしたこともあった。それは今も続いているが、その女性とひょっとして最近見かける洋館の女性が私の中でダブっているのではないかと思えて仕方がないのだ。
その女性はスリムな身体に、白い服が似合う女性であった。何度か見かけた気がしたのだが、服装は決まって白だったような気がする。白い帽子に黒髪が靡いて、とても清潔感があった。
長い髪が風に靡いている。それが少し不思議だったのだが、靡くほどの風を感じていないにもかかわらず、彼女の髪は靡いていた。そういえば彼女に出会う時は、なぜかいつも無風状態だったのである。ただの偶然かも知れないが、そのことがずっと気に掛かってもいた。
少し重めの空気だった気がするのだが、湿気を帯びているわけではなく、カラッと晴れた日ではあるのだが、かといって暑さを感じるわけでもない。過ごしやすい天気ではあるのだが、どうもそれだけではない気がしていた。
そんな気分になったのは、彼女を見かける時だけではなかった。しかしあまりにも印象深かったのはその時だけで、いや、その時の気持ちがあるから、他の時にも感じたのかも知れない。
スリムな身体を最初に見るのは車から降りてくる後ろ姿だった。すぐに目がいったのはスラリと伸びた足で、その付け根のスカートがふわりと靡くのも私の目を集中させるに効果十分だった。そこから次第に視線が上へと上がっていくのだが、所々で視線が止まるのを感じながら、それでも顔を確認したいという思いが強く、ドキドキしながら視線を上げていく。
首筋から覗くうなじを越えると後姿ながら、少し横を向いている女性の顔を確認できるようになる。
――彼女は私が見ていることに気付いているのだろうか?
自然に浮かぶ当然の疑問である。なぜなら横を向いていながら視線はこちらを向こうとしない。私からすれば痛いほどの視線を浴びせているつもりなのに、それに気付いていないというのは、どうにも合点がいかない。本当に見えているのだろうか?
まるで見えない壁があり、たった少しの距離しかないのに、私から見て彼女の距離に比べれば、彼女には私の存在すら気付いていないのだろうか。
風がないのもそう考えると辻褄が合う。その時はそう考えて疑わなかった。だが、それはあくまでその時の状況から考えて納得の行くことで、そもそもそのシチューション自体が普通ではないのだ。その時の空気は本当に流れていなかった。真空でもないのに、重たさを感じるわけでもないのに、空気の流れを感じない。今まででは想像もつかないことだった。
作品名:短編集13(過去作品) 作家名:森本晃次