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短編集13(過去作品)

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 せっかちな性格の私だが、急にのんびりしたくなる時がある。せっかちもピークを過ぎると疲れてくるのだろうか、それとも面倒くさくなるのだろうか、他愛もないことでも、ふと立ち止まってみたくなるのだ。
 その日の私はそうだったのかも知れない。そこに誰もいなかったということも私にとってありがたかった。座り込んで中庭を見てみようという気になったのだ。
 ソファーにタオルを置いて、その横に座り込んで、中庭を覗いた。目の前は全面ガラス張りになっていて、パノラマで景色を見れるようになっている。あまり廊下が明るいとガラスにこちらが反射して見えにくいという配慮だろうか。それともアベックなどに配慮してか、少し薄暗くなっている。その逆に、ライトアップされた中庭の照明は、廊下とはくらべものにならないほどの明るさだった。なぜ前の時に気にならなかったかと思ってしまう。
 上向き加減に広がるライトがいくつかあるのだが、地面は真っ暗というわけではなく、きっと埋め込みのライトになっているからであろう。一面に張り巡らされた芝生が綺麗だった。さぞかし昼間見れば青々して美しいものだろうと感じながら、それでも幻想的な光景に、しばし目を奪われていた。
 よく見ると芝生が少し光って見える。まるで夜露に濡れたかのように見えるのは、どうやら夕方少し雨が降ったからかも知れない。降ったといっても傘を差すほどのものではなく、お湿り程度の雨だ。しかも粒の小さな雨なので、いかにも夜露を思わせ、芝生をさらに綺麗に見せてくれる。
 中庭にもベンチがある。ベンチというよりも丸テーブルに椅子が置いてある程度のものだが、色は白で、ライトアップされる中で鮮やかに浮かび上がっている。そんな演出効果は後からついたのだろう。鮮やかに見える白さは、それだけで立体感を麻痺させられそうだ。
 白いとなかなか立体感を表わすための影を確認することは難しい。まるで浮かび上がったように見えるためか、遠近感さえ分からないかも知れない。それを考えただけでも、ぜひ昼間にもここから見てみたいと感じるに十分であった。
 ライトアップされているとはいえ、まわりが薄暗い中、浮かび上がった白には清潔感があり、しばらくは瞼の奥に焼きついているような気がした。すると、すぐ横に白いものが近づいてくるのを感じたのだ。白いワンピースに白い帽子の女性、それは先ほど海岸で見かけた女性にそっくりである。いや、同じ人に違いないだろう。
 ゆっくりと歩いてくるその顔を確認したいと思って覗き込むが、ハッキリと表情までみることはできない。顔がおぼろげに見える程度なのだが、何よりも色の白さには驚かされた。
 顔はこちらを向いている、私からハッキリと確認できない顔なのだが、表情は微笑んでいるように見える。暗いところから明るいところを見ているので、きっとこちらの様子はハッキリと見えているはずである。舞台の上に上がった女優とは反対の照明効果になっているようだ。
 彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろした。私の視線を背中で感じるがごとく、向こうを向いて座った。
 ほとんど身動きをしない彼女だったが、しばらく見ていると、小刻みに肩が揺れているのが分かった。それが呼吸をしている感覚であり、次第に大きなものになっているように感じたのは、私の視線を感じている証拠ではないかと思えて仕方がない。私の視線はきっと彼女の背中に鋭く突き刺さっているに違いない。それは無意識のことであって、それだけに視線が鋭いのではなかろうか。
 白いワンピースの背中が透けて見えるような気がしたのは、彼女の呼吸の荒さを感じ始めたからだった。緊張感からか汗を掻いているような気がする。背中に突き刺さっている私の鋭い視線が彼女に汗を掻かせるのか、それとも雨による湿気のためにかなり気持ち悪さがあるのであろうか。きっと両方なのかも知れない。
 今の表は気持ち悪いほど静かなようだ。湿気を含んだ空気は重たく感じられ、風もなさそうで、その証拠に彼女の髪はまったく揺れていない。先ほどの乱れ狂う海岸べりとはまったくの別人に思えるほどだ。それだけに、余計に白い肌が浮かび上がって見える。
 腕の細さは先ほど同様、最初に眼に飛び込んできたくらいのもので、何か不思議な懐かしさを感じている。彼女に対して最初から親近感のようなものがあったが、気のせいであろうか。
 おもむろに彼女が立ち上がったが、予感のようなものがあったのか、あまり驚きもしなかった。きっと自分もそろそろ動きたいという意識があったからだと解釈したが、それに間違いはないだろう。見ていて飽きが来たというわけではないが、これ以上見ている気がしなくなったというのが、正直な気持ちだっただろう。
 ゆっくりと来た道を歩いている。風もないのに、帽子を両手で押えるようにして歩く姿は、先ほど海岸で見た光景を思い出させる。微妙に髪が靡いているように見えたが、今度は錯覚ではないようだ。
 彼女が視線から消えても、白テーブルの上に視線があった。何かを考えているのだろうが、それが何なのか自分でも理解できていない。日頃からいつも何かを考えているタイプの私は、じっとその場で考え事をすることは珍しいことではない。
――静寂が暗闇を支配している世界――
 まさしくそんな表現がピッタリかも知れない。白く浮かび上がっているのは椅子のあるあたりだけで、まわりは暗闇だけだ。支配するのはやはり静寂だろう。
――中にいると感じることのできないであろう空気の重さを見ているだけで感じられる――
 それがそこから視線を逸らすことのできない最大の理由に違いない。
 そんなことがあった翌日、恐れていた台風が現実となった。風呂から上がり、帰りに中庭の見える通路を通りかかった時は、先ほどの気持ちが嘘のように、素通りだった。やはり台風のことが気になり表を見ていたがそれも風の確認をしただけで、じっくり見ようという気にはならなかった。それよりもすぐにロビーのテレビを見ようという思いが引っかかったのか、完全に先ほどと違う位置が私の気を削いだのか、表に向ける視線は確認だけだった。
 まるで何事もなかったようにその場を通過したのだが、心の片隅で、
――このまま通過していいのだろうか?
 という思いがあったのは事実のようであるが、考え事をしている時に気が散るのが嫌なごとく、深く考えることはしなかった。
 大浴場は確かに広かった。あまり人がいなかったのは、きっと翌日来る台風を予測して予約客自体が少ないからかも知れない。そういえば先ほど通過するロビーで見たフロントの人などの表情は完全にリラックスしていたように思えたくらいである。
 戻ってきたロビーにも人はおらず、広い空間は静寂に支配されていた。隣には喫茶室があるのだが、そこから流れてくる音楽だけが、心地よいメロディを奏でていた。
 ロビーにあるテレビをつけてみる。一瞬にして静寂が破られ、大きな音が重低音で響いてくる。ちょうどニュースが終わりかける時間で、男性アナウンサーの低い声がまわりに響き、皆驚いてこちらを振り向いていた。
「それでは天気予報です」
作品名:短編集13(過去作品) 作家名:森本晃次