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偶然の裏返し

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 話し始めは相手を異性と感じようが感じまいが同じではないだろうか。しかし、一旦会話に詰まってしまうと、以西を意識している相手とは、会話が続かない気がしていた。一気に会話を成立させてしまわないと、気持ちにぶれが出てしまう。それが、相手を意識するということになるのだろう。
 会話の始まりは、ただ相手を異性だと思っているだけど、一旦詰まってしまうと、今度は、
――異性として対応している相手――
 という意識を持ってしまい、異性という不特定多数ではなく、相手本人を意識してしまうことになるからだ。
――僕が気になるのは、相手が異性だからではなく、異性としての相手として見てしまうからに違いない――
 それが恋というものだということに、考えれば分かるのだろうが、その時にならないと分からないのは、純也だけではないだろう。
 純也は、苦しんでいる彼女を助けて、一緒に電車を降りた。そこに下心がなかったのかと言われれば、
「なかった」
 とは言えない。
 ただ、それは、相手を自分の彼女にしたいなどという具体的な感情ではなく、ある意味、もっと浅ましい考えだった。
「よいことをしたんだ」
 という自己満足に浸りたかった。
 相手からお礼を言われることで、自尊心を高めたかったというのが一番の本音だったのだ。
 しかし、もし気分が悪くなった相手が男性だったら、その人を庇うようにして一緒に電車を降りるだろうか?
 いや、そこまではしなかっただろう。相手が女性だったからしただけだ。そこに自分では気づかない下心が潜んでいたのは間違いない。
 しかし、実際に最初は自分の彼女にしたいという意識だったり、女性の友達を作って、いずれは、そのツテを頼るようにして彼女を作りたいなどという考えまではなかった。その証拠にその時、彼女の連絡先を聞きたいとか思ってなかった。名前さえ聞かなかったくらいである。ただ、
――名前くらい聞いておけばよかった――
 と感じたのは確かで、後悔したとすれば、それくらいだっただろうか。
 彼女との会話はその時はなかった。その日、彼女はそのまま病院へ行ってから会社に出社すると言っていたが、純也と別れる時は、顔色はすっかりよくなっていた。
 ほとんど会話らしい会話があったわけではないので、時間はあっという間だったような気がしていたが、後で時計を見れば、数十分二人だけでいたことになっていた。
――そんなに時間が経っていたんだ――
 と感じたのだが、彼女の顔色がだいぶよくなっているのを思い出すと、それも無理もないことだと思えた。
 自分の感覚がマヒしていたのかと思ったが、雑誌の記事を書くのに集中している時は時間が経つのはあっという間だったりするので、別に感覚がマヒしているわけではないのだろう。そんな彼女とすぐに会えるような気がしたのは無理もないことだったが、まさか別の場所で遭うことになるとは思ってもいなかった……。
 彼女のことは数日ほど記憶に残っていたが、休暇で温泉に行く日が近づいてくるにしたがって、彼女への意識が薄れてきていた。すでにその頃には、人の顔を記憶することに掛けては苦手な純也は、彼女の顔を思い出せないところまで来ていたのだった。
 純也は意外にも一人で温泉に来るのは初めてだった。この会社の方針として、取材で行くのは二人で行動することになっていた。一人がカメラマンで、一人がライターである。いつも同じペアというわけではないが、ある程度ペアは決まっていた。そういう意味でも一人での温泉旅行は、実に新鮮な気分だった。
 取材で過ごす時間は、いつもあっという間だった。食事もおいしいことに変わりはないが、取材も兼ねているので、せっかくの食事もどこに入ったか分からないくらいになっていた。息抜きにやってきた温泉では、まず楽しみなのは一番に食事で、その次が温泉だと言っても過言ではないだろう。
 温泉までは、電車を乗り継いでいくことにした。取材では会社の車で行ったが、やはり旅の醍醐味は電車での旅だと思い、電車を乗り継いでいくことにした。
 場所は、新幹線で一時間ほど乗り、そこから海岸線を通るローカル線で二時間ほど、最後は海岸線から別れを告げて、山間に入り、いよいよ目的の温泉地の最寄り駅に到着するのだ。
 温泉自体は、山の中腹にある。車で赴いた時はずっと山間を通ってきたのであまり意識はなかったが、こんなに海が近いところにある山間だったとは、自分でもビックリしていた。
 実際に温泉は山に囲まれたところにあって、温泉から海が見えるわけではない。ピンと来ないのは無理もないことで、地図だけを見ていては分からないというのも、旅の醍醐味であった。
 最寄駅に着いて、改札を抜けると、小さなロータリーになっていた。駅前と言っても何かがあるわけではない。かろうじてバスが一本通っているだけで、それも近くの工場用に敷かれた路線だった。だが、その工場もすでに御用済みのようで、来年には閉鎖が決まっている。ますますここは寂れる条件が揃ってくるかのようだった。
 予約をした時、最寄り駅からマイクロバスで送迎してくれるということだった。ロータリーの奥の方に申し訳なさそうに止まっているマイクロバスを見つけたが、そこには予約した宿の名前が書かれている。さっそく近くまで歩くと、運転席から背の低そうなおじさんが一人降りてきて、低い背をさらに屈めて、深々と挨拶してくれた。
 取材に来た時にもいたのを覚えているが、相手は自分がその時の取材の人だと分かっているのだろうか?
「樋渡様ですね? ようこそ、佐渡谷温泉へ」
 と言われたので、
「お世話になります」
 と答えた。
 やはり腰の低さは田舎ならではの温泉であった。
 予約する時は、以前に取材で来たということは黙っていた。下手に話をして、仕事の話題を蒸し返されるのも嫌だったからで、純也としては、休暇で来ているので、仕事のことは忘れたかった。
 駅に着いたのは、昼の三時を過ぎた頃だった。駅から車で温泉宿までは約三十分くらいだと聞いていたので、宿について少しゆっくりしながら温泉にでも浸かっていれば、ちょうど夕食の時間くらいになると思っていた。
 最寄駅から少し走ると、
「右手を見てみてください。海が見えますよ」
「本当だ」
「電車は途中から山間を走るので、お客さんのほとんどは、海からかなり遠ざかったような気がしているようなんですが、実際には少し山間に入ったところから、海岸線とは平行に走っているんです。だから、場所によっては海が綺麗に見えるスポットもあったりするんですよ」
「なるほど、綺麗ですね」
 時間的にも日が西の空に傾き始める頃である。山の上から見る海に、西日が差し込んでいて、実に綺麗だった。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ。本当に心が洗われるようですよ」
 と答えた。
 その言葉にウソはなかった。もし、取材で着ていれば、同行しているカメラマンは間違いなくシャッターチャンスを捉えていただろう。車を止めてもらって自分でポジションを確立してベストの場所を探すに違いない。しかし、今日は一人でリフレッシュに来ているのだ。もったいないと思ったが、
――この綺麗な景色も一瞬だから貴重なのだ――
 と考えた。
作品名:偶然の裏返し 作家名:森本晃次