偶然の裏返し
学生時代から一人でいることが多かった純也だったが、出版社に入社し、最初は社会部などで忙しさのせいで、まわりが喧騒とした雰囲気になっていることにうんざりしていたが、途中から旅行雑誌の方へ回され、気楽に仕事ができるようになった。
そんな中で気軽に話ができる人ばかりの部署であることが分かってくると、
――自分の孤独と、仕事の上での付き合いは別なんだな――
ということが分かってきた。
社会部にいた頃には分からなかったことだ。社会部にいる頃は、
――やっぱり孤独な方が何も考えずに仕事に打ち込める――
と思っていたが、どうやら、自分が喧騒とした雰囲気には向いていないことに気づいていなかったようだ。
――旅行雑誌に回されたのは、今から思えばよかったのかも知れない――
それは、純也にとって大きな転機になったようだ。
旅行雑誌の方では、社会部から転属された人は純也だけではなかった。
「社会部の左遷先になっているのさ」
と、先に配属された人は話していたが、
「悔しくないんですか?」
社会部に未練があったわけではないが、それは自分だけだと思っていた純也には、他の人が何を考えているのか分からなかった。
まだその頃は、自分が人と違うということで、
――他の人の気持ちなんか分かるはずなどない――
と思っていた時期だった。
純也がこの部署にやってきてから、皆が暖かく迎えてくれた。
――社会部では考えられないことだったのにな――
と思っていると、
「お前が今考えていることは、俺が数年前に考えたことだ」
と、三年前に社会部から転属させられて、今では編集長に昇進していた先輩の話だった。
「どうして分かるんですか?」
「俺も、社会部ではお荷物扱いされていて、いつ左遷させられるかということを気にしていたからな」
と言っていたが、純也は違った。
「僕も社会部ではお荷物だったことは意識していましたけど、左遷させられるという意識はなかったんですよ」
と言うと、
「今はそう感じているかも知れないけど、少し時間が経ってごらん。俺の言っている意味が分かってくるさ」
と言われた。
なるほど、確かに数ヶ月もすると、自分は意識していなかったが、左遷させられるのではないかということを、心のどこかで不安に思っていたようだ。当時は、言葉にできない言い知れぬ不安を抱えていたのを感じていたが、それが左遷に対しての不安だったということを、この部署にいることで思い出させられたような気がした。
「この部署は、他の部署から言わせると、『ぬるま湯に浸かっている部署だ』と思われているようだけど、そうではない。この部署ほど自分の可能性を活かせる部署はないと思うんだ」
と、編集長に言われ、
「どうしてですか?」
と聞くと、
「社会部というのは、忙しいだけで、自分で発想を活かすということはないだろう? 目の前にあることをこなしていくだけで、発想と言っても、スクープを追いかけるだけで、今から思えばずっと受身だったような気がするんだ。それを感じさせないのは忙しさにかまけていただけで、まさか忙しさというのが言い訳になるなんて、今まで気づきもしなかったのさ」
と言われた。
「なるほど、そうかも知れませんね。旅行雑誌というのは、読む人に豊かな想像力を起こさせるには一番いいのかも知れませんね。社会部の記事は、事実だけではまかないきれないところを、スクープという色をつけることで、読者の関心を買うことになる。下手をすると、自分で自分を嫌になることだってあるんでしょうね」
と言いながら、言葉にしていることに心の中で、その都度頷いている自分を感じていた。
旅行雑誌の方に来てから、一年が経っていた。
馴染みの喫茶店では、相変わらず社会部の書いた記事を読んでいた。
読みながら、
――俺だったら、こんな書き方はしないのにな――
と思いながら読んでいる。
自分が旅行雑誌の人間として読んでいるから感じることだった。
今回、十一月に行こうと思っている温泉地というのは、昨年自分がまだ新人の頃、先輩と一緒に組んで記事にした場所だった。二泊三日の取材旅行で出かけたが、まだまだ新人で何も分からない中での取材旅行だったので、温泉を味わうということはできなかった。
いずれは一人で訪れたいとその時から思っていたので、今回の休暇での旅行先はすぐに決定した。
「一人で行くのかい?」
編集長には、行き先は告げていた。
「ええ、去年取材で行った時から、次に行く時は一人でって思っていたんですよ」
「なるほど、君らしいな。お土産は期待しているよ」
と言われ、苦笑いをしながら、
「任せてください」
と言っておいた。
通勤電車の中で、一人の女性を介抱することになったのは、休暇を取ることにして、行き先を編集長に話してから三日後のことだった。旅行までには、まだ一週間あったので、まだ休暇気分にはなっていなかったが、その日、女性を介抱した時から、何か自分の中で少しずつ変わり始めていることに、その時はまだ気づいていなかった。
「大丈夫ですか?」
途中下車して彼女をベンチに座らせてそう言った時、まだ顔色が冴えない状態で見た彼女の顔はどこか印象的だった。
――どこかで見たことがあったのかな?
と感じたので記憶を辿ってみたが、思い出せる顔ではなかった。
あまり人の顔を覚えるのが得意ではない純也だったので、思い出せるとすれば、ごく最近に見た顔だけだと思ったが、どうやらそうでもないことに、その時気がついた。
記憶を辿っていく中で頭をよぎる顔というのは、自分が学生時代の頃、何となく気になっていた女の子ばかりだった。彼女がほしいなどと思っていたはずではないのに、なぜいまさら頭をよぎるのか、訳が分からなかった。
――どういうことなんだろう?
彼女の顔色は、話をしているうちに戻っていった。
――精神的なものなら、気を紛らわせてあげると、楽になるんじゃないか?
と思ったから、なるべく話しかけてあげていたが、彼女もそれを分かっているのか、会話を続けるようにしているのが分かった。最初はぎこちなかったが、それでも途中からは話題がかみ合うようになり、顔色も息遣いも元に戻っているようだった。
最初に見たのが苦しそうな表情だったからなのか、顔色が戻ってきて、笑顔の彼女を見ると、
――なんて可愛らしい女の子なんだ――
と感じたが、次第に可愛い中に、どこかしっかりしたところが見え隠れしているのか、笑顔にキリッとしたものを感じ、急に言葉に詰まりそうになるのを感じた。
――初めて感じるタイプの女性だ――
と感じたことで、その時から純也は彼女に心を奪われていたのかも知れない。
それまで会社の恩の子と普通に話をしていたが、会話のほとんどは仕事の話で、お互いに異性として意識していなかったから、会話が弾んだのだと純也は思っていた。
その思いは当たらずとも遠からじであり、相手を異性として意識してしまうと、いくら仕事の話だとはいえ、それまでとは違ってしまうような気がしていた。