偶然の裏返し
と、純也も煮え切らないような生半可な返事をしたのだが、それがおかしかったのか、マスターは軽く笑った。その笑いに失笑を感じたのであれば、二度とこの店の敷居をまたぐことはなかっただろうが、純也には、マスターが暖かく迎えてくれそうに思えたことで、この店が馴染みの店になるというイメージを頭の中で浮かべていた。
馴染みになるまでは早かった。数回来ただけで、自分でも常連だと思うようになったし、マスターが話しかけてくれる機会も増えた。相変わらず他の人と話すことはなかったが、それはそれでよかったのだ。
マスターはゴルフの話をよくしていた。純也はゴルフをしたこともないし興味もなかったが、それでもしてくる。もし、これがマスター以外の他の人だったら鬱陶しいと思うに違いなかったが、なぜかそんなことは感じない。
マスターも、純也が嫌な気がしていないことを分かっているからなのか、遠慮することもなくズバズバと話しかけてくる。
――相手によってここまで違ってくるなんて――
と、自分が聞き上手な面があるということに初めて気づかされたことにビックリしていた。
それは、相手がマスターだからビックリしたのだ。マスターとは店でしか接点がないからに他ならなかった。
その日は、珍しく客が多かった。
一見さんの客もいたが、カップルだったりした。男女ともに見たことのない人たちだったので、紛れ込んできたのかも知れない。
――それにしても、この店は紛れ込んでくるにしては入り組んでいるところにあるのにな――
と感じたのは純也だけだっただろうか?
入り組んでいるところだからこそ、純也は最初に入って来た時、
――紛れ込んでしまった――
と感じた。
しかし、意外と馴染みの店というのは誰もがこういう紛れ込んでくるようなところにある店を自分ぼ馴染みにするのかも知れない。だからこそ、
「隠れ家のようなお店」
として、常連になれるに違いない。
純也は聞き耳を立てるようなことは決してしていなかった。
「神に誓って」
などというほど大げさなものではないが、人の話など最初から興味があるわけでもない。却って余計な話を耳にすることこそ迷惑だと思っているほどだ。ただ、ヒソヒソ話ほど下手に意識させられるものではない。男女の会話はそんな声のトーンをストライクで射抜いていた。
「ねえ、聞いてるの?」
まずは、その言葉が最初に飛び込んできた。ということは、純也は最初からその話に意識を傾けていたわけではなく、相手を諭すような女性の言葉に反応したと言ってもいいだろう。
相手の男は、彼女のその言葉に何ら反応を示さなかった。すると、女は軽くため息を漏らし、話を続けた。どうやら、男からの返事を最初から期待していたわけではなく、
――どうせ、いつものことよ――
とでも感じたのか、男に構わず話し始めた。
その内容は、他の人の話題のようで、いかにも女の子が好きそうな話題だった。聞き手が自分だったら、
――いい加減にしてくれよ――
と思うに違いないと感じていた。
話の内容は、彼女の友達の彼氏のことだったようだ。彼女自身の話であればまだしも、面識はあるかも知れないが、彼女の友達という人を介した間柄の人の話をされても、ピンと来るようなものではない。
「その子がね。涙ながらに私に訴えるのよ」
その話は、どうやら友達の彼氏が浮気をしている可能性があるというものだった。
「ハッキリと浮気だって分かっているわけではないんだろう?」
と、面倒臭そうににはしていたが、話は聞いていたのか、聞き返していた。その態度よりも、自分の話を聞いてくれていたことに嬉しさを感じたのか、彼女の方も嬉々として話を始めた。
「ええ、そうなのよ。でもね、彼女はそういうことには聡い方なので、彼氏が浮気をしているとすぐに分かるというの」
「それは、普段の態度に怪しさを感じるというものなのかい?」
「それもあるけど、例えば香水の香りがしてきたとか、そういう具体的なことなの」
「そんなに聡い女性を彼女にしているのであれば、香水の香りを漂わせてしまうようなミスをする彼氏というのも不釣合いな気がするけど?」
「でも、世の中そんなものなんじゃないの? 片方が几帳面だったら、片方がズボラだというカップルだって結構いるわよ。それでもうまく行っているカップルも結構いるんだから、本当に男女の仲って面白いわね」
「俺たちはどうなんだ?」
それを聞いた彼女は少し考えていたようだが、
「私たちは、似た者同士なんじゃないかしら?」
「そうかな? 趣味だって違っているし、話題だって、いつも一緒だとは限らない」
「でも、相性と言うものがあるでしょう? 私は相性はバッチリだと思うの」
そういって、少し恥らっているように感じた。
純也はカウンター越しに後ろを向いているので、二人を見ているわけではないが、会話の内容や、言葉のアクセント、そして息遣いなどから、二人が考えたり感じたりしていることを想像していた。思ったよりも想像できているので、純也はしばらく二人の会話を聞きながら、いろいろ想像するのもいいと思えてきた。普段なら決してこんなことはしないはずなのに、その日の純也はどうかしていたのかも知れない。
彼女の恥じらいは、きっと身体の相性について想像していたからだろう。その言葉に対して相手の男は何も言わなかったことから、男の方も彼女の言いたいことが分かったのかも知れない。
こういうことは、話をしている当事者よりも、他人事として聞いている方が、いろいろ想像をたくましくできるだけに、気が付くものではないかと思っている。
「ところで、彼女の彼氏なんだけど、私も本当に浮気をしていると思えるところがあるのよ」
「どういうことだい?」
「私と彼女が一緒にいる時、やたらとラインが入ってくるんだけど、ある程度の時間になると、急にラインがはいらなくなるのよね。それもいつも同じ時間なの。そして忘れた頃に一回ラインが入ってからは、深夜まで何も連絡がないの。友達が時々私の部屋に泊まりに来るんだけど、ラインが朝まで来なかったことも結構あったわ。これって、彼女と一緒にいる時間、連絡が取れないので、一人の時間に集中してラインを送ってきていると思うのが普通じゃないかしら?」
「なるほど。でも、それってあまりにもあからさまな気もするけどね」
「そうかしら?」
純也は二人の話を聞きながら、彼女の方は、正論を口にする方で、彼氏の方は、最初から何かを疑って掛かる方じゃないかと思えていた。
そして、彼女の方は、友達も多く社交的で、彼氏の方は、友達がほとんどおらず、一匹オオカミのようなところがあるのではないかと思った。しかし、途中から彼女の話を聞いていると、友達は多いかも知れないが、信頼できる友達が一人いて、彼女の言うことを全面的に信じているのかも知れないと思えてきた。だから、友達の話になるとムキになったり、自分の考えに固執してしまうところがある。それは、友達の影響をかなり受けた彼女の考えであり、それが彼氏にとって、あまりありがたくない性格に感じられているのではないかと思えた。