偶然の裏返し
子供の頃、母親に連れられて入った食堂で、そこに来ていたおばさんたちの様子を見たことから、わざとらしさのいやらしさを感じるようになった。
おばさんたちは、食事の最中もまわりに憚ることなく大声で笑いながらくだらないウワサ話に花を咲かせていた。一切まわりに気を遣うことのないその態度に、半分嫌気が差していたところだったのに、その怒りが最高潮に達したのは、会計の時だった。
いざ、お金を払う段になって、おばさんたちは、
「今日は私が払いますよ」
と一人が言うと、
「あら、奥様。今日は私が」
さらに、他のおばさんが
「何をおっしゃってるんですか? 今日は私ですよ」
と、どうでもいいことで言い争いになっていた。
最初は穏やかだったはずなのに、あっという間に険悪な雰囲気を醸し出し、店の人も困惑して、何も声を掛けられなかった。
まわりには、食事を終えて会計を済ませようとしている人が待っている。本当はそんなおばさんたちを押しのけてでも会計を済ませればいいはずなのに、おばさんたちの気迫(?)に押されてか、何も言えずに立ち竦んでいる。
――何て、人騒がせなんだ――
どうやら、おばさんたちの会計を自分が持つという理由には、グループの中での自分の立場が影響しているようだ。だから、おばさんたちの間にワリカンという概念はない。
本来であれば、一人が会計を纏めて済ませ、後で回収するというのが一般的なのだろうが、それがありえない状況なので、必死に自分が払うと言い張っている。しかも、自分たちの中でのセレブ意識がどれほどのものか、それを自分たちだけではなく、まわりにも見せ付けようという魂胆だったようだ。まわりとすれば、
「そんなのどうでもいいわ」
と憤慨するだけなのに、おばさんたちの中だけの世界では、まわりは自分たちの気迫だけで何とかなるとでも思っているのだろう。
そんなものを目の当たりに見せ付けられた少年時代の純也だったので、人に気を遣うという言葉がどれほどの欺瞞に溢れたものなのかということを考えさせられるだけだったのだ。
「俺のお母さんだけは違うと思っていたのに」
それは、純也が中学に上がった頃だった。
あの時のおばさん連中ほどひどいものではなかったが、自分の母親が同じように、無駄な気の遣い方をしているのを見かけたことがあった。本人は気を遣っているつもりなのだろうが、まわりにいた人の目を見ると、明らかに迷惑千万だという目をしていた。気づかないのは母親だけで、そんな母親を見て純也は、
「かわいそうに」
と思ってしまった。
それは他人であれば、軽蔑に値するものなのだろうが、肉親であるだけに、軽蔑するには忍びない。そこで感じたのが、
「かわいそうに」
という哀れみの感覚だったのだが、これが一番蔑んでいる感覚であるということに、その時は気づかなかった。
しかも、そんなかわいそうな人から、
「他人には気を遣わなければいけないわ」
と言われているのだから、世話はないと思えた。
しかし、そうなると、他人に気を遣わなければいけないという言葉が、紙切れよりも薄っぺらいものであり、そういう人間こそが、無駄な気の遣い方をして、他人に無言の迷惑を掛けていることに気づかないのだと思ってしまうのだった。
その頃から純也は、言わなくてもいいような説教をする人間を信用できなくなった。
「口では何とでも言える」
と思うようになり、そんな人間を遠ざけるようになっていった。
しかし、悲しいかな、この世の中、当たり前のことを当たり前にいう人がほとんどで、そんな連中を遠ざけていくと、自分のまわりには誰もいなくなってしまった。
しかし、途中から、
「無駄なわざとらしい連中を遠ざけているんだから、別に寂しいわけではない」
と思うようになった。
寂しさのかわりに自由を手に入れたと思うようになり、高校時代にまわり皆が敵だと思うことに鬱陶しさを感じながらも、実際には元々遠ざけていた連中なので、悪いことをしているという気持ちはさらさらなかった。
だが、まわりが敵だという感覚は、まるで自分が作り出した感覚のようで、その思いがあったことから、鬱陶しさを感じたのだ。その頃から鬱陶しいと感じるのは、
「自分が作り出したことなのか、本当の雰囲気なのか分からない時だ」
と感じるようになっていた。
確かにまわりの雰囲気が、すべてを敵だと示しているのだが、どこか虚空の感覚があったのも事実だ。どこか自分の中でしっくり来ないものがあり、苛立ちを覚えていた。そう思うことが、自分の作り出した感覚だと思わせることに繋がったのだが、わざとらしさというのが自分の中から生み出される鬱陶しさに結びついてくることで、
「俺は他の人とは違うんだ」
と思うようになった。
他の人にはない、何かの特殊能力が身についているのではないかとさえ思ったことがあるくらい自分を持ち上げていた。まわりに支えてくれる人を排除したのだから、自分を持ち上げるには、それなりに自信に繋がるものがなければいけない。自信に繋がるものをなかなか見つけることができないと、次第に自分が孤立してくるのを感じた。
ただ、孤立や孤独は寂しさを感じさせない。そう思うことで、大学に入ってから一人でいることが多くても、嫌な気にはならなかった。むしろ、
「自由を謳歌できる」
と感じたほどだ。
純也は、馴染みの喫茶店をいくつも作りたいと思っていた。そこに来る人の中には、付き合っても鬱陶しいと思わない人がいるはずだという思いが強くあり、その人と一緒にいる時間は、一人の時間を謳歌することとどちらがいいのか、甲乙つけがたいと思えるのではないだろうか。
実際に大学の近くの喫茶店で、第一号の馴染みの店を見つけた。
大学を卒業してからかなり経つのに、それでも馴染みにしている店はそんなにはない。
客は大学生がほとんどで、それも単独客が多い。つれと一緒にいるという人は少なく、待ち合わせをしても、すぐに出て行く雰囲気だった。
「この店は一人でくるに限る」
と思っている客ばかりなのだろう。
さすがに大学生ばかりの店に、三十歳になった自分がいるのは場違いかも知れないと思ったこともあったが、すぐにそんな思いは消えてしまった。
どちらかというと、隠れ家的な店なので、ほとんどの客が常連客だ。そうなると当然、一見さんというのは入らなくなる。入ってきたとしても一度きりで、それ以上来ることはないだろう。しかし、稀にもう一度くる客もいる。そんな客が常連として新しく仲間入りするのだ。
純也も最初はそうだった。
――何だ? この人を寄せ付けない雰囲気は――
と憤りのようなものを感じ、店に入ったことを後悔したが、なぜかすぐに出るのもおこがましい感じがして、しばらく重苦しい空気に耐えながら、佇んでいた。
カウンターに座ったのだが、そんな純也を見て、マスターが話を向けてくれた。
「ここは常連で持っているような店なので、なかなか初めて来た人には馴染まないんだ」
それは、警告のようにも聞こえたので、
「はあ」