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偶然の裏返し

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 自分が自分ではなくなることの方が、返事ができなくて困ってしまうことよりも優先順位としては高いものだったのだ。
 それは、会話によって得られるものを逃してしまうという思いをプラス思考に考え、相手ありきの会話で答えられないことがマイナス思考であるという考えなのだとずっと思っていた。
 しかし、実際にはそんな「綺麗ご」ではなかった。
 人に合わせることで自分ではなくなってしまうことを嫌うのは、自分の中に、
「人といるよりも、孤独の方が自分にとってはありがたいと思う時もある」
 という思いがあるからで、それが常時その思いを持っているのであれば、自分を納得もさせられるが、時たま思うことなので、自分を納得させるには、程遠かった。
 その頃から、一人でいるという孤独を嫌いではなくなってきた。それまで一人でいるというのは、自分が望んだことではなく、まわりが自分に寄ってこないことで作られた時間であり、それを決して自分は望んでいないと思っていた。孤独が寂しさを誘発すると思っていたからである。
 しかし、一人でいる時間を後になって思い出すと、
――懐かしい――
 と感じる自分がいることに気が付いて驚いていた。
 確かに一人でいる自分を後になって思い出すと、過去のことであることから、まるで他人のように思えてくる。だからこそ、懐かしさを感じるのだと思っていたが、言い訳だとしても、嫌な気分にはならなかった。むしろ、懐かしさは自分を表から見ているからではなく、その時に自分が何を考えていたのかというのを思い出そうとしている自分に感じることだったのだ。
 一人でいる時間、その時には感じなかったが、後から思うと、まわりを気にしている自分がいたように思えてならなかった。
 誰かに見られているという感覚ではなく、自分がまわりを観察しているという思いである。観察しているからといって、
――まわりに流されないようにしよう――
 という思いがあるわけではない。あくまでも自然であり、
――主導は自分だ――
 という意識の元であった。
「一人でいることが孤独だというのであれば、自分は孤独が嫌いではない」
 という思いに至った時、孤独は寂しくはないと思うようになった。
 人と一緒にいた方が、むしろ寂しさを感じることがある。それは、人と自分を比べてしまうことで、人のいいところばかりが目に映ってしまい、自分を卑下してしまうことになってしまうからだ。
 高校時代の純也がそうだった。
 一人でいることが多く、まわりの皆は受験を前にしてピリピリとしてくる。まわりの皆が敵だと思うと、被害妄想に駆られることも多くなる。そんな自分が嫌いだった純也は、敢えてまわりに近づこうとはしなかった。ただ、まわりが皆敵だとは思わなかったが、鬱陶しさだけは残ってしまった。
 一番嫌いな思いをしたくないという思いから、鬱陶しさが生まれてきたのだが、結果的に、鬱陶しさが一番嫌いな思いとなり、人と関わることを避けるようになったのが高校時代だった。
 ただ、高校時代にいろいろな話ができる友達がいなかったことは事実で、きっとまわりからは、
「あいつは敵だ」
 と、自分が感じたように自分も思われていたに違いない。
 大学に入ると、それまでの自分を変えたいという思いが強かった。受験を乗り越え入学した大学だ。大学の存在自体が、まるで受験を乗り越えた自分へのご褒美だと思うのは、無理もないことだろう。しかし、その発想が実際には陳腐で子供じみた発想だということをその時の純也は、意識していたように思う。それなのに、そんな陳腐で子供じみた発想が抜けきることはなく大人になっていくことも、何となくではあるが分かっていたような気がする。
 それでも、大学に入ると、それまで我慢していたことを解禁しようという重いが強かった。
――今の俺は何だってできるんだ――
 と、自分が見えている範囲での支配者になったような思いを抱いていた。
 だが、実際には自分のまわりには似たような思いを持っている人ばかりだった。自分がいくら何でもできると思ってみても、自分よりも優れたやつには適わない。いくら背伸びしても、それは背伸びでしかないのだ。
 そのことを思い知らされたのは、友達ができてからだった。
 お互いに表向きは、大学に入ったことで、いろいろできなかったことができるという思いから、開放的な気分になって、明るく振舞っていたが、心の底では、相手よりも目立つことで、今までの暗かった人生を変えたいと思うようになった。それは、
「高校時代に感じた孤独は寂しさではない」
 という思いに逆行することであり、逆行していることには、気づいていなかった。あくまでも前を見ているだけだとしか思っていなかった。要するに、自分のいいところしか認めようとはしなかったのだ。
 どうしてそんなに目立ちたいのかというと、やはり、
「大学に入ったのだから、何でもできる」
 という開放感と、達成感から生まれたものであろう。高校時代までの純也にはなく、心の奥で求めていたものだったからに違いない。
 大学に入る前は、
「大学に入ったら、友達や彼女を作るんだ」
 と、自分自身で息巻いていたが、実際に入ってみると、そのどちらもそんなにほしいとは思わなかった。
 ただ、彼女がほしいと思った時期は定期的に訪れたが、それほど積極的ではないので、彼女などできるはずもなく、ある時期まで来ると、急に気持ちが冷めてしまう。そんな感覚を繰り返してくると、次第に、
「彼女ができても鬱陶しいだけだ」
 と思うようになった。
 この鬱陶しさは高校時代に、
――まわりが皆敵に見える――
 と思った時に感じたものとは少し違っていた。
 高校時代に感じた鬱陶しさは、自分の中から湧き出てくるものであったのに対して、大学に入って、彼女がほしいと思う気持ちを繰り返している時に感じる鬱陶しさは、まわりからのものであると思えたからだ。
 それは、彼女がほしいと思う気持ちが自分の本心ではないからで、一人でいたくないという思いが根底にあったからだ。しかし、達成できない思いを繰り返していくうちに、一人でいたくないという思いに疑問を感じるようになった。
――一人でいたくないという思いとは、自由を否定しているのではないか――
 と感じたからだ。
 一人ではないということは、まわりに誰かがいるということであり、その人に気を遣わなければいけないということになる。純也は自分が不器用であることは分かっているので、そんな性格の中で人に気を遣うということがわざとらしさを含んでいると思えてならなかった。
 人に気を遣うということは元々嫌いではなかったはずなのに、途中から嫌いになった。周囲の大人たちから、
「人に気を遣うことを覚えなさい」
 と、言われ続けていたからだろう。
 元々純也が考える人に気を遣うということは、さりげなさの中から生まれるもので、わざとらしさが見えてしまうと、すべてが興醒めしてしまいそうに感じたからだ。
「わざとらしさを表に出すくらいなら、気を遣うなんて考えない方がいい」
 というのが、純也の考え方だった。
作品名:偶然の裏返し 作家名:森本晃次