偶然の裏返し
弟が宗教に入信したのも、姉のそんな姿を見て、
――裏切られた――
と勝手に感じたからではないだろうか?
姉は裏切ったつもりなどない。ひょっとすると、弟のことも、少しは相談に乗ってもらっていたのかも知れない。
ななの方も、他人に弟のことを相談しているという後ろめたさがあり、変に気を遣っていたとすれば、弟が何かを感じ取ったとしても無理もないことだろう。お互いに気を遣い合っていることですれ違う感情は、これも一種の「偶然の裏返し」と言えるのではないだろうか。
弟が宗教団体に入信したのも、ななが不倫をしているのも、「偶然の裏返し」。純也は、喫茶店で聞いた不倫の話を他人事だと思い、それから少ししか経っていないにも関わらず、ウワサ話が作り出す闇の世界を垣間見ることができるような気がしていた。
最初は、
――ウワサ話の真実に触れているのではないか?
と思っていたが、神髄の近くまでは来ているのだろうが、真実や核心に触れていることはないように思えてきた。だが、今度はそのうちに、何が真実なのか分からなくなってくると、真実と事実が違うものだという基本的なことに気づいた。
――基本的なことほど、誰もが分かっているようで、なかなか理解できるものではない――
と思えるようになった。
純也は、自分が妄想していることを思い起こしていた。
まず、馴染みの喫茶店で、不倫の話をしているのを他人事のように聞いている場面。
電車の中でななと呼ばれる一人の女性を助けたこと。
仕事の休暇を貰って、以前取材にいった温泉宿に泊まり、そこで昔話や、自殺した話を聞かされたこと。
温泉宿の近くに宗教団体の総本山があり、そこにななの弟が入信していたということ。
ななが会社の部長と不倫をしていたということ。
そして、総本山に入信していた弟が自殺をしてしまったということ。
それぞれに、いろいろな思いがあり、想像が妄想を膨らませているのだが、よく考えてみると、時系列的には矛盾が明らかであった。
それは「偶然の裏返し」として片づけられるものではないような気がしたが、どうなのだろうか?
純也は、今までのことを思い起こしているうちに、自分が正直者であることに気が付いた。
正直者というのは、相手の気持ちを忖度して、空気を読むことが苦手である。
いや、苦手というわけではなく、空気を読まなければいけないことは分かっているのだが、自分の中にある
――正直にならなければいけない――
という気持ちが優先してしまうのだ。
だが、正直者というのは、相手の捉え方によって、かなり違っている。
「正直者は損をする」
と言われるが、案外とそうでもなかったりする。
正直者というのは、危険なことに巻き込まれることは少ない。なぜなら、
「正直者を相手にすると、すべてを暴露されてしまう」
と思うからで、それは当然のことである。
後ろめたいことを考えている連中には正直者ほど扱いにくい人間はいない。何でも話をしてしまうからだ。
しかし、逆も言える。
自分の意志に関わらず、ヤバいことを知ってしまっても、正直者としての性が、
「知っていることは正直に言わないと自分が許せない」
と思うからで、ヤバいことをしている連中にとっては、自分たちの知らないところで、勝手に暴露されてしまっていることなので、純也のような男を生かしてはおけないと思うかも知れない。
そこまではいかなくても、純也のような性格には、相手の立場によって、捉えられ方がまったく違っているのは事実だろう。人それぞれに性格や立場があるのだから、それに合わせて付き合っていくのが人間関係なのに、相手に構わず、皆同じように付き合うのであるから、当然相手の捉え方が違うのは当たり前のことである。
純也が、急に自分をななの弟になったような気になったのも、そう考えてくると無理もないことのようだった。
純也は本当に宗教団体に入信したことはない。先輩が体験で入信するのに協力はしたことがあるが、それだけのことだった。
純也は自分が正直者であるという意識はいつも持っているが、
――だから何だというのだ?
と改まって考えると、そう思うくらいに正直者だという意識は無意識に近かった。それはまるで「路傍の石」のように、目の前にあっても、それを気にすることはないのと同じである。
純也は自殺した弟のことを考えていた。
以前、自分が自殺している場面を妄想したのを思い出していた。自殺をする時、
――どうすれば、簡単に死ぬことができるか?
という思いを抱いての想像だったが、下手に生き残った時のことが頭に残って、自殺の手段をまともに選べないと感じていた。
しかし、想像する自殺の場面は、屋上から階下を望んでいる姿だった。
下には通路があり、その向こうには植え込みがあった。その時に感じたのは、
――どうせ死ぬなら、植え込みの上に落ちたい――
と感じた。
しかし、これも矛盾している。
自分が、
――どうすれば、簡単に死ぬことができるか?
と意識したのを思い出すと、植え込みの上であれば、下手をすると生き残るかも知れないという普通に考えれば分かることを考えられなかったことである。
――どうして、こんな単純なことを――
と思ったが、なぜ分からなかったのか、疑問だった。
――これも自分が正直者だからなんだろうか?
死にたくないという思いがどこかにあって、それを未練というのだろうが、未練と覚悟の間で交錯する気持ちが、後から思うと理屈としては納得させられることが分かる。
死のうと考えるのは、覚悟が強いからで、最後まで覚悟の方が強く持てる人間を、純也は、
――大した人間だ――
と感じる。
世の中の人は、
「死んで花実は咲かない。死んでしまえばそれまでだ」
というだろう。
そして、死んだ人の骸にムチを打つような言葉を、「正義」として正当化するに違いない。
純也もそれが当然だと思っていた。テレビドラマやニュース、学校の授業でも、
「命は何にも代えられない大切なもの。自分で勝手に死を選んではいけない。人は生まれてくることも選べないけど、死ぬことも選べない」
という言葉を幾度となく聞かされた。
それを聞くと、なぜか涙が出てきた。死を選んだ人を、
「悪いことだ」
とまで考えるくらいだった。
しかし、言葉の魔力というのはあるもので、一種のプロパガンダだと思うのは、戦争モノの映画や本に興味を持ったからだ。
――人の命は何ものよりも大切といいながら、人殺しを公然とする戦争は、一体何なんだ?
と思う。
それも無理のないことだ。誰もがそう感じないのはなぜなのかと思う。
平和ボケしているからだというのもあるが、実際に戦争に直面している人も、命のことを考える余裕もないほど、必死なのかも知れないと思うと、何が正しいのか分からない。つまりは、
「事実が真実だとは限らないからだ」
と言えるからではないだろうか。
純也はななの弟も正直者だったような気がした。正直者だからこそ、自分にウソがつけずに、自殺してしまったように思う。
ただ、ななの弟と純也とでは同じ正直者でも、その性質が違っているように思う。