偶然の裏返し
純也の場合は、正直者だということを自分で感じようとしていない。あくまでも無意識にであって、むしろ正直者が嫌いな性格だったのではないだろうか? だから、まわりの人は純也が正直者だと気づかずに、見た目をそのまま信じていた。だから、社会部からも簡単に左遷させたりできたのだろう、
しかし、ななの弟の場合は、正直者だということを自分で分かっていた。だから、宗教団体への入信に何ら疑いを持つことはなく、自分の思った道を進んだのではないだろうか。
正直者というのは、他の人に対してというよりも、自分に対して正直な性格のことをいう。だから、自分が自由でなければいけないといつも思っていたのだろう。
自殺にしても同じことで、まわりの人がどう思おうと、自分がこの世に必要のない人間だと思うと、簡単に死を選ぶのかも知れない。それは宗教団体の影響もあったのかも知れないが、最後の生殺与奪の権利は、自分にしかないと思っていた。
純也も、生殺与奪の権利は自分にしかないと思っている。ひょっとすると、死を覚悟した時、自分の中に、自分の未来、つまり最後の瞬間が見えたのかも知れない。
どうしてななの弟が死ぬ気になったのか分からない。だが、それはいずれハッキリするのではないかと思えた。
その時に見えたのが何だったのか、純也には分かる気がした。
目の前に見えている景色を見た時、ななの弟は、
「植え込みに落ちればよかったかも知れないな」
と感じた。
自分はもうこの世にはいない、だからこそ、植え込みが見えたのだ……。
三十年後、純也は部長になっていた。この三十年というのが純也にとって何であったのか、いまさら思い出すことはできない。
三十年前、
「あなたとはお付き合いできません。でも、またいずれ……」
と言って、純也の前から去ったなな、曖昧な記憶はいずれ完全に消えてしまっていた。
ただいつも目を瞑ると、目の前に植え込みが見えていた。それがななの弟の意識であることは意識の中にはない。いつも自分の中にななの弟が住んでいた。
純也は結婚することもなく、ずっと独身を通していた。その思いは、
「またいずれ」
という言葉を発する女の声が耳鳴りのように響いたからだ。
まわりから、
「どうして結婚しないんですか?」
と聞かれると、
「私は不倫をしたくないんだよ」
と、答えていた。
聞いた人は誰もが訝しく思ったことだろう。そして、それ以上は誰も結婚を勧めようとしない。
――ななの弟の自殺の原因、このあたりにあるのだろうか?
純也は、何度か総本山の近くの温泉宿に宿泊していた。温泉に浸かりながら、目を瞑って考えた。
――どうして、目を瞑ると、植え込みしか見えてこないのだろう?
ななとの出会いが早いのか、それともななの弟に会うのが早いのか、生殺与奪の権利は、その時の純也にはなかったのだ。
「偶然の裏返し」
ななの弟の存在を思い出すことができるのかどうか? それが、純也の運命を決めるのかも知れない……。
( 完 )
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