偶然の裏返し
生殺与奪の権利
先輩が入信した宗教団体、先輩の死には、その宗教団体が関わっていることは誰が見ても明らかだった。
しかし、その証拠はどこにもない。警察の通り一遍の捜査で解明できるほど、その宗教団体は甘くはなかった。
純也は、以前電車の中で助けた女性と待ち合わせてから、次第に深い仲になっていった。
彼女の名前は、ななと言う。身体の関係になるまでにはそれほど時間が掛からなかった。ななが言うには、
「私には弟がいて、私が就職してから三年目、弟が大学の三年生になって、いよいよ就職活動を始めようかという時に、急に行方不明になったの」
「ご両親は?」
「田舎にいるわ。私が大学に入学したのを機に、都会に出てきたんだけど、高校生の弟も、大学は私の大学の近くにしたの。私がいるならということで、両親も何とか反対はしなかったんだけど、大学にしっかりと合格すると、やっぱり反対と言いだしたのよ」
「どうしてなんだろうね?」
「私の考えでは、あまりにもうまく行き過ぎたので、不安になったんじゃないかしら? ほら、偶然が重なってとんとん拍子にうまく事が運ぶと、急に不安になることがあるでしょう?いわゆる『好事魔多し』ということわざのようにね」
「でも、大学に入学できたのは本人の力で、偶然なんていうと、弟さんがかわいそうだよね」
「ええ、でも、それが田舎の考え方なのかも知れないわ。今なら分かるんだけど、田舎で暮らしていくというのは、偶然などという言葉は甘いだけだと考えたとしても、それは無理のないことのように思うの」
「確かにそうなんだろうね。でも、弟さんはそれから?」
「ええ、何とか説得して、大学に行かせることになったの。何といっても、事実として大学に合格しているんですからね。それを辞めさせるなんて、さすがにそこまで両親はわからずやの非道な人たちではなかったの」
「親は、子供の幸せだけを望むっていうからね」
「その通りね」
「その頃の私は、自分が就職活動中だったり、就職できても、新入社員として覚えなければいけないこともたくさんあったので、弟に構っている暇はなかったのよ。でも、弟は無事に大学に入学して、大学で仲間もできたようで、大学生活を謳歌していたの。私はそれだけで安心できたわ」
「ななさんの方も、就職してから大変だったんじゃないですか?」
「ええ、でも配属された部署では大切に扱ってくれて、そんなに苦労することもなかったんです。男性は皆さん優しかったし、課長も部長もよく私のことを気にかけてくださっていて、自分は幸せ者だって思っていました」
「それは、よかったですよね」
「でも、あれはいつのことだったかしら? いつもランチに行く喫茶店に、いつものように同僚の女の子と一緒に出かけた時のことなんですけど、そこはいつものように昼休みは満席だったんですね」
「ええ」
「いつもなら、同僚との話に花が咲いて、まわりの声はほとんど遮断されたような気がしていたんですが、その時だけは、なぜかまわりの声も気になっていたんです。同僚との会話もしっかりできていたのに、まわりの声も意識していたって、まるで聖徳太子のようだって思いました」
たった一人でまわりの十人近くの人の話を一度に聞くことができたという聖徳太子の逸話だったが、いまどきそんなことを口にする人は珍しいと思えた。案外、ななという女性は、古風なところもあるのかも知れない。
「何か気になる話が、耳に飛び込んできたんですか?」
「ええ、でもいつもなら自分に関係のないような話は、耳に入ってきても、右から左に抜けていくはずだったんですが、その時は本当に耳に入ってきたんですよ」
「それは、どんなお話だったんですか?」
「後ろにいた女性二人の話が耳に飛び込んできたんですね。私は同僚と、カウンターに座っていたんですが、ちょうど後ろのテーブル席に座っている女性二人組みです」
「それで?」
「二人の話は、そのうちの一人の友達が、不倫をしているという話だったんです。不倫をしていることに気がついたので、彼女に相談したということを、自分の友達に話していたんですよ」
「相談していたわけですね」
「私も最初はそう思ったんですが、そうでもないようなんです。ただ誰かに話したかったというだけだったようで、相談というほどの込み入ったものではなかったんです。だから、それ以上の詳しい話は途中から聞こえてこなくなったんですよ」
「ヒソヒソ話になったんですか?」
「いえ、そうではないようでした。あまりにも話し声が聞こえなくなってから時間が経った気がしたので後ろを振り返ったんですが、そこには誰もいないんですよ」
「帰ったんじゃないですか?」
「いえ、そんなことはないんですよ。その証拠に、その席にはリザーブの札が置いてあって、予約席になっているようなんです。だから、まだ誰もその席に座っているわけではないんですよ」
「じゃあ、誰もいない席からウワサ話が聞こえてきたというわけですか?」
「そういうことになりますね」
「気味が悪いですね」
「ええ、でもその話がしばらく私の頭の中にずっとあって、そのうちに、その話が自分の身に降りかかってくるんではないかって思うようになったんです」
「自分が不倫をするように感じたとか?」
純也は悪気はなかったが、少し茶化すような言い方をした。それだけ、ななとの距離は縮まっているように思えたからだ。
「ええ、実はそれから私は不倫をするようになりました」
「えっ?」
「私、実は会社の部長と一時期、不倫をしていたんです」
「どうして、それを私に話してくれたんですか?」
「もし、これから誰かとお付き合いをするようになったら、その相手にはこのお話をどこかでしないといけないと思っていたんです。私のことをすべて知ってもらって、それでも私とお付き合いしてくださる人でなければ、それ以上自分を偽ったままお付き合いをしても、お互いによくないと思ったからです」
「ななさんは、僕のことをそこまで気にかけてくれているというわけですね?」
「ええ、そうです」
ななは、覚悟を決めているのだろうが、その顔からは、難しい表情が溢れているわけではない。純也にはそれが嬉しかった。
「じゃあ、聞かせてもらおうかな?」
上から目線ではあるが、なるべく優しい口調で話した。相手が覚悟をしているのであれば、こちらが上から目線で話して上げる方が、却って相手にプレッシャーを与えることはないと考えたのだ。
さらに純也は、ななと知り合ってから少しして、馴染みの喫茶店で聞かされた、聞きたくもないと思っていた不倫の話を思い出した。ななの話とは少しシチュエーションが違っているようだが、同じ不倫の話、これは偶然なのだろうか?
もし、ここに偶然が重なったのだとすれば、さらなる偶然もあるかも知れない。
――偶然には力がある――
と考えている純也には、ななの話を中途半端に聞くことはできなかった。