偶然の裏返し
苛め問題が最悪になったことで、世の中には中途半端な人間が増えた。そんな人間を地下で暗躍する暴力団関係団体は待っていたのだ。彼らの存在は、暗躍するには好都合で、簡単に切り捨てても表に出ることはない。
また、宗教団体の方も、地下で暗躍することで、表には健全な会社を演出し、世間の人を騙すなど、簡単なことだった。騙された人も、騙されたことに気づかぬまま、地下に潜らされてしまう。その頃にはしっかりと洗脳されているのだ。
だが、彼らはあくまでも地下組織である。表には出てこない存在で、表に出るには時代が違っていた。いずれは表に出る野望を持っているのかも知れないが、今は地下で潜伏していることに、わだかまりを持っているわけではない。
ただ、以前からあるメジャーな宗教団体にも変化が訪れていた。
仏教にしても、キリスト教にしても、宗派がいろいろある。今、仏教関係の宗派の中で、さらに細分化しようとする動きがあった。
これは、別に隠れて行われているわけではない。公安から睨まれているわけでもないし、世間的に「認知」されている宗教なだけに、少々のことは、社会問題にまで発展することはない。
「政党の中にも、宗教と関わっているところもあるくらいだからな」
という意味で、国家公認と言ってもいい宗教団体も存在していた。
後輩の話から夢を見たことで、いろいろな思いが頭をよぎっている。どこまで発想は頭を巡るのであろうか?
偶然の演出
純也は、宗教団体のことをいろいろ考えていると、今度は目の前に見えてきたのは、山の中腹にある大きなお寺だった。そこはいかにも「総本山」というにふさわしい佇まいになっていて、
「総本山?」
その言葉、どこかでごく最近、聞いたような気がしていた。
――そうだ、会社の後輩に聞いた温泉宿の近くにあると言っていたどこかの宗教の総本山ではないか?
今、自分が夢の中にいるのは分かっている。夢の中で考えている時と、実際に起きていて考える時とでは違っていた。
普段起きていて考えていることは、考えている流れの中でいろいろ発想を膨らませるので、一つの考えの中での発想を忘れてしまうというのは、そうないことであるが、夢の中での発想は、時系列になっているわけではないので、一度考えたことを、意識していないこともあるのではないかと思っている。
しかし、起きている時に考えていることというのは、流れの中では覚えているのだが、一度忘れてしまうと、なかなか思い出すのは困難だった。逆に夢の中でのことであれば、同じ夢の中で、思いついたことを決して忘れることはなかった。時系列に沿わない記憶は、普段の自分の発想からは考えられないような意識があるようだった。
そういう意味で、
――目が覚めるような気がする――
と、夢を見ている時に感じることがあるが、そんな時、その裏で、同じ瞬間に、
――覚えているはずのことが覚えられないような気がする――
と感じるからではないかと思えてきた。
――総本山が見えてきたのは、偶然なのだろうか?
と一瞬考えたが、すぐに、
――そんなことはない――
と打ち消した。
その理由は、夢を見ている間に考えているからであり、夢を見ている間、
――考えていることに偶然などということはない――
という発想があるからだった。
夢というのは確かにその人の潜在意識が見せるものだという。しかし、潜在意識であっても偶然というものはありえない。偶然と思っているのは、自分が以前に感じたり見たりしたものを疑ってしまうという考えからではないだろうか。それは、いわゆる「デジャブ」であり、「デジャブ」というものが、潜在意識の辻褄を合わせようとする本能のなせる業であると考える。
デジャブを夢の中に認めるのであれば、偶然というのはありえない。つまり夢を見ている時に、偶然を考えるのはナンセンスなことだった。
潜在意識のどこかにあった総本山、ここには夢の中で自分に何か結論を出させるのではないかと思うものを孕んでいるのかも知れない。
夢というのは、完全に最後まで見ることはできないというが、本当だろうかということを以前には何度も考えたことがあった。しかし、今では、
――夢というのは、完全に最後まで見ているもので、見ていないように感じるのは、目を覚ましながら忘れていくからだ――
と感じているからだ。
子供の頃は、
――完全に夢を見ることができないものだ――
と思っていた。
なぜなら、最後まで見たという意識を持ったまま目が覚めてしまうと、それが夢だったのか、それとも妄想だったのかが分からないからだと思っていた。しかも、夢の世界での出来事は起きている世界とは別物であり、いくら夢を見ている自分でも、その世界には入り込めないと思っていた。最後まで夢を見るということは、夢の世界に入り込んでしまったということであり、
――二度と夢の世界から抜けられないのではないか――
と思わせたからだ。
夢の世界というのは、夢を見ている時、
――こんなに大きいなんて――
と考えていても、目が覚めて覚えていたといても、それは大きいということを感じたという意識を覚えているからだった。
実際に総本山の夢を見たという意識はあっても、目が覚めてから覚えているのは、写真の光景のようなもので、その大きさや規模などは、夢を見ていた時に感じたことを脳裏から引っ張り出すことで感じるだけだった。
写真のようなイメージで思い出すというのも、感じた意識から夢が覚めてから、意識の中から組み立てたものであって、決して夢で見たものではないのだった。
その総本山、以前に一度行ったことがあったような気がした。就職してすぐ、社会部へ配属された時、まだ右も左も分からなかったそんな時、先輩記者に連れて行かれた。
「ここは、ある宗教の総本山なんだが、今まではひっそりと活動をしていたんだが、この間、匿名でここの総本山が急に人を集めているという内容のメールが届いたんだ。どこまで信憑性があるものなのか分からないし、相手が宗教団体だと、大っぴらに行動もできない」
「私は何をすればいいんですか?」
「君は何もしなくてもいいんだ。ただ、私が体験入信をしようと思うんだが、君は私の弟としてついてきてほしい」
「それだけでいいんですか?」
「ああ」
先輩に言われるまま、ただついていっただけだったが、そこで見た総本山というのは、今まで想像していた宗教団体とは少し違っていた。
昔見た、テロ組織の宗教団体を思い出させるのか、宗教団体というと、道場のようなところがあり、皆空手か柔道着のようなものを着ているものだと思っていたが、そんなことはなかった。
何においても、すべてが巨大だった。
山の森を切り開いたかのような広い敷地内に、無駄に大きいのではないかと思わせるものばかりが目立った。京都のお寺を思わせるような、流砂を模した庭園に、大きな石がいくつも置かれていて、
「この石の配置には、大きな意味があります」
と、説明してくれた団体の人は、ほとんど感情を表に出すことなく、淡々と話をしていた。