偶然の裏返し
だからと言って、一度変わってしまった体勢が元に戻ることはない。苛めという問題は、過去の悪しき政策によって、さらに悪化してしまっていた。下手をすると、
「苛め肯定説」
などという考え方が生まれてきた。
いわゆる「必要悪」として社会にその地位を確立してしまったのだ。
純也の育った時代は、ちょうどそんな苛めの体勢の転換期に当たっていた。
学校も社会も混乱していたが、誰もが、
「この混乱が一段落すると、苛め問題は一定の決着を示す」
と、安易に考えていた。
だが実際には、最悪の結果が待っていたわけだが、純也は自分も傍観者だったことで、最悪の道を世の中が歩んでいることは分かっていた。
おそらく他の傍観者たちにも同じことは分かっていただろう。苛めっ子に転身した人も、本当は苛めっ子になんかなりたくなかったはずだ。
「世間なんて、しょせんこんなものだ」
という諦めの境地を持って、苛めっ子に転身して行ったのではないかと純也は感じていた。
世の中で、政府の対策がさらに悪化の一途をたどらせた問題もいくつかあった。その中に宗教団体に対しての問題もその一つだった。
宗教団体が目立って悪どいことをするのは、数十年前のテロ事件が最後となった。それ以降、警察組織の公安がしっかりと宗教団体を見張っていて、国家としても、テロ防止法という法案を成立させ、宗教団体など、少しでも不穏な動きを見せれば、警察の国家権力で、捜査の幅が急速に拡大した。
下手をすれば、令状なしに家宅捜査をしたり、軽犯罪であっても、宗教団体に関わっている人間であれば、逮捕令状なしに、逮捕勾留が許された。
ただし、それは他の刑罰と同様、無制限というわけではない。あくまでも現行法の範囲内に限られていた。
そんなこともあって、宗教団体は表立っての活動はできなくなった。ほとんどの宗教団体が水面下でしか動けなくなって、一時期、宗教団体の数が激減した時期もあったくらいだ。
「一定の成果を挙げた」
ということで、警察も安心しきっていた。
もちろん、公安はそんなに甘くはなかったが、それでも自分たちの成果に驕りがあったのも事実だろう。
そんな時期を経過して、宗教団体は、一般市民の前から姿を消したほどになっていた。
ただ、もちろん、世間一般的に認知されている昔からある宗派は、今まで通りだった。仏教、キリスト教などのメジャーな宗教は、市民と深いかかわりを持っていた。
要するに摘発されて、警察や公安に目の敵にされたのはカルト宗教と呼ばれる組織だったのだ。
カルト集団は、完全に地下に潜ってしまった。このまま何もなければ、カルト宗教も滅亡の危機にまっしぐらだったのかも知れないが、偶然というのは恐ろしいものと言えるのではないか。
――転んでもただでは起きない――
同じ執念深さを持った連中が、潜った地下には潜んでいたのだ。
最初に地下に潜っていた「先住者」は、
「俺たちもこのまま終わるわけにはいかない」
と考えていた。
地下に潜っていた「先住者」、それは弱小に近い暴力団関係の団体だったのだ。
彼らは縄張り抗争に敗れて、このままいけば、滅亡を余儀なくされていただろう。それでも彼らには「執念深さ」というものがあった。
最後まで諦めない気持ちというのは、いくら暴力団関係の団体と言っても、見上げたものがあった。ただ、彼らには力がなかった。彼らにとって今一番必要な力というのは、「金」だったのだ。
宗教団体の地下に潜った連中は、あからさまな活動はできなかったが、暴力団関係のように、商売に関してはそれほどの規制はなかった。暴力団関係と違って宗教団体に対しては、
「地下に潜らせておけば、二度と表に出てくることはないだろう」
という思いがあったのだ。
だから、企業としての活動は、却って社会に貢献しているということで、大目に見られ、世間に受け入れられているほどだった。そうやってコツコツとお金を貯めて、いずれは復興に使おうと考えていたのだ。
お金はあるが力や人脈に乏しい宗教団体と、力や先導力はあるが、お金に乏しい暴力団関係が出会ってしまった。
お互いに利害関係は一致していた。
しかも、長年地下に潜って活動してきたので、活動の準備段階においては、手抜かりはなかった。迅速に、そして隠密に行動するのは、まるで忍者のごとくだった。
宗教団体と暴力団関係の団体がまさか地下で手を結んでいるなど想像もできない公安は、完全に裏をかかれてしまっていた。
公安は、
「彼らは地下に潜らせておけば安心だ」
とタカをくくっていた。
宗教団体も、暴力団関係も、公安の範疇なのに、その両方をのさばらせる結果になるなど、想像もしていなかっただろう。
警察組織の中で特別な団体である公安がそうなのである。世間一般の警察や、ましてや自分たちの立場しか考えていない官僚や政治家などに、必死に生き残りをかけようとしている団体の苦労が分かるはずもない。
決して悪を容認できるわけではないが、警察や公安、官僚や政治家などに比べれば、その後の世の中がどうなっていくのか分かっている人には、何とも言えない複雑な気持ちだっただろう。
分かっている人もいないわけではなかった。
大学でいろいろな研究をしている先生の中には、この状況を分かっていて、憂いている人もいた。しかし、自分だけが何を言っても、警察や政府が納得するはずもない。何しろ、公安を信用しているのだからである。
苛め問題が深刻化してきたのは、ちょうどこの頃だった。
苛め問題が一昔前の政策の失敗から悪化してしまったことを、世間一般の人もようやく知ってきた頃だった。
ということは、政府や警察はもっと前に分かっていたはずである。
彼らは自分たちの保身しか考えていなかったので、世間に対してひた隠しにしていたのだ。まるで昭和の戦争を踏襲したような情報操作ではないか。
時代は繰り返すというが、その後の闇市のようなものが、地下で進められていることに公安は気づいていなかった。やはり政府官僚を相手にしていることもあってか、政府高官をターゲットにしながら、自分たちが彼らに染まっているということを分かっていなかったのだ。
「ミイラ取りがミイラになる」
ということわざがあるが、まさか自分が染まってはいけない相手に染まってしまうなど、想像もしていなかったに違いない。
宗教団体と暴力団関係の団体とでは、趣旨も違えば、目的も違う。いくら地下で利害が一致したと言っても、活動には大きな差があった。しかし、それだけに、お互いに「不可侵条約」を結ぶことで、今まで相手を意識することで行動に制限があったが、その垣根はなくなり行動しやすくなった。これも利害の一致のおかげと言ってもいいだろう。
――公安や政府も気づかない。お互いの垣根もなくなった。お互いに弱い部分を克服できた。地下万々歳だ――
こんな状況を世間一般の人も分からない。これほど、行動しやすいこともないというものだ。