偶然の裏返し
それでもこの五十分の間に眠っていたおかげで、金縛りはすっかり解けていた。起き上がって縁側にある椅子に腰掛けて表を見ていると、まだ半分頭がボーっとしているのを感じた。
湯冷めしているわけでもなく、さっきまでぼ疲れはなくなっていた。こうなると、どちらかというと貧乏性なので、じっと座っていることは却って苦痛だった。
「ロビーにでも行ってみよう」
それまでに誰かに出会うかも知れないし、誰もいなくても、宿の人と世間話をするくらい、別にバチは当たらないと思った。
ここに着いてから、他の宿泊客の気配を感じることはなかった。
――やはり、今日は一人なのかな?
と思い、こんなことなら最初にチェックインした時に聞いておけばよかったと少し後悔した。
こういうことは、後になればなるほど聞きにくいもので、それでも、今日の純也なら、聞けなくもないような気がしていた。
部屋を出てロビーに向かうと、さっき感じていたのが違っていたことに気づいた。
ちょうど、自分がロビーへ向かう途中の通路から先を横切るように一組のカップルがあった。
――宿泊は僕一人だけではないんだ――
と感じ、二人が横切った辺りまでやってきて、二人の後姿を見つめたが、二人は純也の視線に気づくことなく、物音一つ立てずに露天風呂の方へと、姿を消していった。
――変な二人だな――
歩いているのだから、少しは頭が上下していいはずなのに、二人とも、頭の高さに変化はなかった。まるで足を使って歩いているわけではないような佇まいだ。足がない幽霊のようではないか。
二人の歩いた後を見ていると、濡れているように見えた。二人はもう露天風呂の方に曲がってしまったので確認することはできなかったが、本当にスリッパを履いていたのだろうか。
――おかしな二人だな――
もし、その時、通路が濡れているのを見なかったら、その後純也はロビーに行って、その二人のことを聞いていたかも知れない。そのことをしなかったのを後になって後悔することになるが、それはまさしく、
――後の祭り――
だったのだ。
純也は、三日間の間、二人の姿を一度も見ることはなかった。最初に見かけたあの時だけだったのだが、横顔をチラッと見ただけなのに、女性の方の顔をしっかりと正面から見たように顔かたちの記憶はハッキリしていた。
しかし、男性に関してはまったく意識がない。思い出そうとしても、顔は浮かんでこない。まるでのっぺらぼうのようで、目も鼻も口も、何もなかった。体格からしか男性であるという意識はなく、体型は彼女の顔同様、忘れることはなかった。
純也は、この三日間、温泉にも十分に浸かり、ゆっくりと静養ができた。
「三日間、お世話になりました」
「また、おいでくださいませ」
チェックアウトの時は、来た時よりも、顔色はよかったのだろう。女将さんは笑顔で答えてくれた。
「ところで、この温泉宿の奥にある、昇竜の滝には行かれましたか?」
「いいえ、仲居さんからお話は聞いていたんですけど、そこまでは足を伸ばしていません。そんなにいいところなんですか?」
というと、
「そういうわけではありませんが、そうですか、行かれてないのであれば、それでいいです」
何となく歯に物が詰まったような言い方で、一瞬純也は不思議な気持ちになったが、すぐに気を取り直した。
「今度来た時、行ってみます」
「ええ、ぜひ」
と、言葉少なくそう答えた。
純也はそれからすぐに家に帰り、温泉宿のことはだいぶ忘れかけていた。
切り替えが早いことは純也の長所であるが、そのために、ついさっきまでのことを忘れてしまうことも結構あった。
「長所は短所と紙一重だ」
と言われるが、まさしくその通りであろう。
――明日から、またいつもの生活が始まるんだな――
と思うと、その日だけは眠りに就くまでは、温泉宿の思い出に浸っていたいような気がしていた。
後輩の話
布団に入り、仰向けに横になると、最初の日に感じた木目調の天井を思い出していた。
――あの時は金縛りに遭ったんだな――
というのを思い出していたが、あの時の金縛りに遭ったイメージや痛さは思い出すことはできるのだが、何を考えていたのかを思い出すことはできなかった。
――何も考えていなかったんじゃないか?
後から考えて思い出せないことでも、何かを考えていたのであれば、考えていたということだけは思い出すことができる。しかし、この時は何かを考えていたという意識はまったくなく、そう思うと、
――やはり何も考えていなかったんだ――
としか思えなかった。
そう思うと、またしても睡魔が襲ってきた。この睡魔は金縛りに遭った時に感じた睡魔と同じだった。あmるで夢の中に落ち込んでいくのを感じているような睡魔だった。
――あの時の夢を思い出せるのだろうか?
ということを思いながら、純也は眠りに就いたのだった。
夢の中では、温泉宿の通路を歩いていた。すると、目の前を一組の男女が通り過ぎていった。その先には露天風呂がある。まさしく、夢が見せるデジャブだった。
デジャブというのは、前に見たことのあるような景色を見たように感じることであるが、感じたその時に、いつどこで見たものなのか、さっぱり分からないものである。しかし、温泉宿で見た光景は記憶にはっきりと残っていて、いつどこで見たものなのか分からないものだというわけではない。
それなのに、どうしてこの意識をデジャブと表現するのか、自分でも分からなかった。しかし、この感覚はデジャブ以外の何者でもないということを、もう一人の純也は教えてくれているようだ。
純也は、その日、久しぶりに通勤電車に乗った。一週間ぶりくらいだったにも関わらず、昨日も同じ電車に乗ったような気がするのは、リフレッシュと仕事がまったく違う次元であることを無意識にも意識している証拠なのかも知れない。
いつもの時間、いつもの電車、そしていつもの車両のいつもの立ち位置。今まで変わることのなかった平凡な生活。慌しさや喧騒とした雰囲気なのにも関わらず、どこか安心したように思うのも、習慣というものの恐ろしさを物語っているようで気持ち悪くもあった。
満員というには中途半端な車内も相変わらずで、自分の立ち位置を決めることができるのに、どうにも不満だった。
それは、誰もが同じ場所をキープしていて、自分の立ち位置というものを自分が最初から決めたわけではないということだ。
――空いているスペースに入り込んだだけ――
という感覚で、毎日同じ光景。安心できるという反面、どこか物足りなさのようなものがあった。
――僕はこのままずっとこの中での立ち位置をキープしたまま、歳月だけが勝手に過ぎていくことになるんだ――
電車の中で変化があるわけではない。
――そうだ、変化があるとすれば、この間立ち眩みを起こした女の子――
一瞬楽しめるような予感があったが、あくまでも妄想である。妄想が悪いことだとは思わないが、続けば続くほど抜けることができなくなりそうで、それが一番怖かった。