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偶然の裏返し

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 浴衣に着替え、露天風呂のあるところまでゆっくりと歩いていると、もう一人宿泊客がいるような気がしてきた。暖かさを感じなかったことで、てっきり最初は、
――宿泊客は自分ひとりだ――
 と思い込んでしまっていたが、どうやら違うようだった。
 その人がどんな人なのか見たわけではないので分からなかったが、何か女性の気配を感じた。それは、宿の人の雰囲気ではない。しいて言えば、都会の雰囲気を感じさせる匂いを持っている人のようだ。
――そのうちに会うことになるかも知れないな――
 という程度にしか感じていなかった。まずは、目的の温泉に浸かって、日頃の疲れを癒すことにした。
――温泉に浸かっていると、どうして眠くなってしまうのだろう?
 旅行雑誌の方に配属になって初めて感じたことだった。学生時代にも何度か温泉にやってきたことはあったが、その時は眠気を誘う雰囲気はなかった。
――このまま眠ってしまってもいいかも知れないな――
 溺れてしまうという意識はなぜかその時にはなかった。しかし、そんなことを考えていると、今度は眠気が冷めてしまった。
――勝手なものだな――
 考えているのは自分本人なのに、勝手なものだと感じるのは、この旅行を最初から他人事のように考えようという意識が働いていたからなのかも知れない。
 取材であれば、仕事になるので、ただ漠然と時間に流されるわけには行かない。だから絶えず何かを見つめ、何かを考えていた。しかし、プライベートな旅行なのだから、余計なことを考える必要などないのだ。
――普段感じることのない他人事の感覚を味わってみたい――
 と感じていた。
 普段であれば、他人事のように考えている人を見ると、苛立ちを感じていた。なぜなら、他人事のように振舞っている人は、本人の中で、他人事だと感じていることを表に出さないようにしているのを感じるからだ。
――最初から他人事のように思っているのなら、表に出せばいいものを――
 と感じるのは、純也だけだろうか。
 純也は他人事のように感じている時、まわりに悟られないようにしようなどと考えたことはなかった。だから、露骨にまわりから胡散臭そうな目で見られることもあった。
 だが、隠そうとしても分かる人には分かるのであって、どうしても他人事のように感じなければいけない場面に出くわせば、敢えて隠そうなどとしないようにしていた。
 それでまわりから胡散臭そうに見られるのであれば、それはそれで仕方がない。そう思いたい人には思わせておけばいいだけなのだ。
 温泉に浸かっていると、いろいろなことが走馬灯のように脳裏をよぎっていた。それはまるで夢を見ているのではないかと思うように、漠然としているものなのだが、なぜか頭では理屈を考えている。記憶が一瞬でも途切れた時、急に我に返って最初に感じるのは、
――一体何を考えていたんだろう?
 という思いだった。
 それは、ただ記憶の奥から醸し出される思い出を思い出そうとしているだけのはずなのに、何かを考えていたという思いが最初に頭をよぎる。自分の中で信憑性のあるものであり、理屈で何かを解明しようとしていたように思えてくるのだった。
 温泉に浸かりながら、最近のことを思い出していたが、その記憶は、電車の中で女の子が立ちくらみを起こし、介抱してあげた時のことだった。
 しかし、我に返って考えてみると、さっきまで思い出していた内容と、我に返ってからの記憶を比較すると、どこかが違っているように感じた。
 どこが違っているのか、すぐには分からない。このまま考えていても、結局見つからないかも知れない。それでも、一度我に返ってしまうと思い出さないわけにもいかない。
「もう一度、さっきと同じように他人事の気分になれば、同じ感覚になることができるだろうか?」
 と自分に言い聞かせるように言葉に出して言いながら、もう一度、肩までお湯に浸かってみた。
――他人事になれるだろうか?
 そう思ってもう一度瞑想していると、今度は違う場面が思い出された。
 それは、馴染みの店で、カウンターに座っている時、後ろにいた客のウワサ話だった。
 自分にはまったく関係のないことであり、完全に他人事だったはずだ。他人事という意識が強すぎて、違う「他人事」を思い出してしまったようだ。
 カップルのするウワサ話など、ただ興味を持つだけで、深くは考えたりはしていなかったはずなのに、なぜ今思い出してしまったのか、やはり、他人事という意識からだろうか?
 その時、純也は決して後ろを振り返ろうとはしなかった。声だけを聞いていたのだが、その声が少し掠れていたように感じられた。
――どうしてハスキーだったんだろう?
 最初は分からなかったが、今思い出してみると納得できる。普通の声のトーンに聞こえていたのは、話の内容に途中から興味を持ったからで、相手の顔を見ずに聞き耳を立てていたので、実際にはヒソヒソ声だったことで、声自体がハスキーだったのだ。そう思うとハスキーな声のトーンがストライクだった理由も分からなくもなかった。
 ただ、思い出してみると、話の内容は本当に自分にとってどうでもいいことだったはずだ。それなのに気になったというのは、何かこれから起こることを予感させる何かがあったのではないかと思わせた。
 その証拠に、実際にどういう話だったのかがおぼろげだ。ただ感じることとして、
――あの時の話は、これから自分のまわりに起こることを暗示していたような気がする――
 というものだった。
 しかし、直接自分に関係のあることではない。、あくまでも他人事である。ただ、事件に巻き込まれるかも知れない。その中途半端な意識が、温泉で他人事として思い出そうとすると、おぼろげにさせるのだろう。
 またしても、
――もう一度、思い出してみよう――
 と思い、さっきと同じように温泉に肩まで浸かってみた。
 夢を見ているように感じられたが、今度は何も意識するものはなかった。
「これじゃあ、本当に眠ってしまうじゃないか」
 苦笑いをしながら口に出して言ってみると、もう、温泉に浸かりながら他人事を感じることはできなくなっていた。
――このままではのぼせてしまう――
 さっきまでとは明らかに違う。これ以上温泉に浸かっているわけにもいかず、湯から上がって浴衣に着替えた。完全に身体は温まっていて、着替えるまでに寒さや冷たさを感じることはなかった。それが温泉の効用なのか、それとも浸かりすぎていたことを証明しているだけなのか分からなかった。
 部屋に帰って時計を見ると、一時間も経っていた。どちらかというと貧血気味のところがある純也なので、温泉に浸かれる時間は限られているはずだった。移動や服の脱着の時間を差し引いても、かなりの時間、温泉に浸かっていたことになる。自分でもビックリしていた。
 部屋まで帰ってきて、畳の上で大の字になって仰向けに横になっていた。目の前に見える天井を見ながらボーっとしていると、天井が落ちてきそうに感じられ、身体が反射的に反応し、ビクッとなったかと思うと、まるで金縛りに遭ったかのように、動けなくなっていた。
作品名:偶然の裏返し 作家名:森本晃次