短編集12(過去作品)
そう言って他の観光客が指を差していた。皆一斉にそちらを振り向くと、なるほど、天空に鮮やかな虹のアーチが掛かっていた。それは私が今までに見た虹よりも大きく、そしてハッキリと写っていた。
しばし酔いしれていたが、よく考えると、雨が功を奏した景色でもあった。今まで松江というと「雨」のイメージ、そしてイコール嫌なイメージだった。何かモヤモヤとしてハッキリせず、それが体調を崩す原因となって、熱を出してしまっていたのだ。
本当は美佐子に見せたいと思ってやってきたはずなのに、今は自分が見れたことに感動している。美佐子に見せたいというよりも、私自身が以前来た時に見れなかったことがよほど自分の意識の中で大きかったのだということを思い知らされた気がした。
すでに私はついさっきまで熱があったなどということを忘れさせられるほど、目の前の光景に酔っていた。同じように感動している美佐子に対しての気持ちがこれで本当に確かなものになったのだと感じた。
――本当に来てよかった――
美佐子の横顔を見ながら私はそう感じていた。
私にとっての旅行の目的は、美佐子の本当の顔を見たかったから。素敵な場所を見る時の表情というのは、本当の顔に限りなく近い表情をするのだと私は思っていた。輝いて見えた顔、きっとそれが私の求めていた美佐子の「顔」に違いない。
「明日の出雲が楽しみだわ」
「出雲はそばが有名だから、一緒に食べよう」
割り子そばと言い、三段重ねになったそばだという。会社で旅行好きの連中に聞いて知っていたが、ザルそばと逆でそばつゆをかけて食べるものらしい。以前出張で来た時に食べるつもりだったが、あいにく発熱のために叶わなかったので、今回こそは、と楽しみにしていたのだ。
美佐子もきっと私の顔を気にしていたのだろう。
「今回の旅行であなたの笑顔、初めて見たような気がするわ」
言われて初めてドキッとした。今私が笑顔だという自覚がないからである。鳥取や隠岐島でさりげない笑顔を見せたつもりだったのだが、美佐子にはそれが笑顔だと認識できなかったようだ。
「あなたのことはよく分かるの」
と言っていた美佐子の気持ちが分からなかった。意識するのがいけないのだろうか。そもそも美佐子の口から私の笑顔についての話など出たこともなかったはずだ。
「そうかい? 体調が悪かったからかな?」
「そうかも知れないわね。顔色が今と全然違うもの」
きっと血の気が引いたような顔をしていたに違いない。気分が悪くなった時の私の顔は、自分で見てもすぐに分かる。しかし、今回の旅行中、洗面台の鏡で顔を見た時、全然おかしいなどと感じなかった。
小さい頃に家族で旅行に行くと、よく風邪を引いていた時期があった。親から見るとすぐに体調が悪いのが分かったらしいのだが、鏡で見ていた自分にはよく分からなかった。旅行に出るというだけでウキウキした気持ちになるので、鏡で見ても昂ぶった気分で見るためか、自分ではいつもと違う顔には感じない。
「あなた本当に自分で分からないの?」
「うん、家にいる時はすぐにおかしいのが分かるんだけどね。旅行に行くと分からないんだよ」
「旅行に出た時のあなたを見ていると、いつもボーっとしているように見えるのよ。たまに話をしても上の空の時があるでしょう?」
確かに話し掛けられて、その声にビックリしてしまうことがある。何かを考えていたのだろうが、すっかり忘れている。
旅行に出た時の私は別人になってしまうのだろうか?
翌日になれば、そんな疑問も次第に小さくなっていく。頭の片隅に置いたまま旅行を続けているが、決して消えるものではないようだ。
その晩の身体に残った美佐子の感触を楽しむかのように目を覚ますと、美佐子はすでに服を着替えて用意していた。私のように身体の感触を楽しんでいたいと思わないのだろうか?
「女の身体って分からないな」
美佐子に聞こえるはずがないような小さな声で呟いた。
汗がまだ身体にへばりついていて、シーツとの間に心地よい感覚を与えてくれる。目が覚めたにもかかわらずベッドから出たくないと感じる瞬間である。こんな気持ちになるのは、女を抱いた時以外にはないだろう。特に美佐子は格別だ。
シャワーを浴びてしっかり身支度を整えている美佐子の表情は、昨日の表情とはまったく違っていて、一昨日までの表情である。昨日の表情は朝と昼からでかなり違った美佐子だった。松江という私にとって雨を感じる土地での午前中は、雨に映える女の雰囲気があり、一瞬妖艶にも感じた。どちらかというと雨に咽ぶ城下町で佇む女のイメージであり、一人旅でもしていそうな雰囲気があったのだ。
昼からの美佐子は、私のことを本当に心配してくれていて、新婚時代の元女房を思わせ、熱にうなされながら一瞬勘違いしてしまいそうなくらいだった。
夕方からは、もし学生時代に知り合っていれば、こんな感じだっただろうという思いを抱かせるほど、あどけなさが残った表情だった。目の前にある景色だけを真剣に見つめていて、美しいものを美しいと素直に感じることのできる、そんな雰囲気だった。
どれが本当の美佐子なのだろう?
私が見たかった本当の顔は、夕日を見ている美佐子なのだが、実際の美佐子が本当に夕日を見ている時の美佐子なのかと考えると疑問が起こる。そこまで真剣に考える必要もないのだろうが、一度離婚を経験している私は気になってしまう。
やっとの思いで着替えた私を、今か今かと美佐子は待っているようだった。
「急いだって、出雲は逃げやしないよ」
笑いながら言うと、
「そうね」
と、ニコニコした顔で返してくる。しかしそれは私の知っている美佐子の表情とは少し違ったものだった。しかしそれも一瞬だった。
松江から出雲大社までは私鉄で行った。宍道湖を横目に見ながらの一時間ほどの旅である。昨日の宍道湖を見てしまっているので、車窓から見る宍道湖はおまけのようにさえ思えた。だが、お互い会話をするわけでもなく、漠然と表の景色を見ているので、自然と目に宍道湖の風景が入ってくる。
――昨日一日ってなんだったんだろう?
と感じたが、旅とはこんなものなのかも知れない。あまりにも期待しすぎてはいけない気もするし、旅もそろそろ終盤、マンネリ化するものが出てきてしかるべきとも言える気がする。
――美佐子は何を考えているんだろう?
そういえば、
「出雲大社って、縁結びの神様よね?」
と言っていた。
私とのことを願うのだろうか? それにしても少し無表情すぎるような気がする。昨日までの松江の夕日を楽しみにしていた美佐子とは明らかに違っているのだ。
駅を降り、境内までは徒歩約五分である。途中大鳥居を抜け、並んで歩いていくと、参道が見えてくる。
美佐子の表情が次第に緊張しているのが分かる。視線は前しか向いていなくて、私の方を振り返るような様子はない。昨日の夕方に感じた「見たかった顔」ではなく、昨夜身体を離すことを嫌がった妖艶な美佐子でもない。
じっと美佐子の顔を覗き込んでいる私に対し、
「見てはいけないのよ」
と話しかけているようにさえ感じる。
「何を見てはいけないんだ?」
作品名:短編集12(過去作品) 作家名:森本晃次