短編集12(過去作品)
霧に咽ぶ松江城は、下から見ていると、広島城よりも大きく見えるから不思議だ。以前行った熊本城よりもさらに大きく見える。どちらの城が大きいのかはハッキリと分からないが、どうしても曇天に聳える城が一番大きく感じてしまう。
雨は少し小止みになってきていた。早朝が一番激しく、時間が経つにつれて次第に小雨に変わってきているということは、夕方に期待が持てるかも知れない。それでも私のジンクスが生きているとするならば、やはり夕方は難しいだろう。
もちろん、美佐子にそのことは話していない。せっかくの期待を裏切るような真似はしたくないのだ。
「夕方、宍道湖に行ってみよう」
「ええ、楽しみだわ」
それだけを言うと、松江城に登っていった。天守閣の最上部から見る街の眺めは絶景で、それぞれの街の顔を見せてくれる。下から見ていると城の天守閣が街の顔に見えるのだが、上から眺めると街の顔は、街全体という大きなものである。
大きなはずの宍道湖が上から見るとそうでもないように感じたが、それは最初だけで、よくよく見るとやはり大きかった。それだけ上からの風景は下から見るのと違った赴きがあり、一瞬だけでも違った感覚を起こさせるに十分なものなのだろう。
「ほら、あそこが武家屋敷」
真下に見える武家屋敷を上から見ると、まるで豆粒のようだ。実際に行ってみると、そうでもないのだが、とにかく密集していることは上から見れば一目瞭然である。
「小泉八雲って、確かここですよね?」
「ああ、そうだよ、よく知ってるね」
「だってあなたと来るところですもの、少し調べておきましたわ」
そう言ってはにかんで見せる。夜の妖艶な顔も素敵だが、昼こうやってはにかむ姿を見たくて旅行に出かけたのだということを、今さらながらに思い出していた。
「私、雪女のお話が好きなんですの。妖怪のようなんですけど、女性が怖いということをハッキリ表わしていて……」
今度はニヤリと笑った。その表情はいかにも、
――私も怖いのよ――
といわんばかりで、睨んでいるようにも見える。
――捨てたら承知しないから……
とも見える。
小泉八雲旧家は、城を出てすぐである。
そういえば雪女の話も、見てはいけないもの、話してはいけないものの類ではないか。思わず、数日前に見た鳥取砂丘の黄色い砂を思い出した。今日の天気とは対照的に、青い海、青い空に砂が風で靡いていた。
そして次に頭に浮かんできたもの、それがさっき天守閣から見た下界の風景である。少し距離のある宍道湖から、真下の武家屋敷に目を移した時に感じた豆粒のような街並み、まさしく砂丘で感じた遠近感による目の錯覚ではないだろうか?
鳥取砂丘での遠近感の錯覚を思い出していた。豆粒のように見えた人たちだったが、天守閣から見下ろす街並みや観光客とは角度の違いだけで片付けられない違いがあった。
――ああ、明るさの違いか――
砂丘では綺麗に晴れた中でくっきりと砂の模様が年輪のように浮かびあがっていた。まるで砂に書かれた紋章のようである。そこに豆粒のようなものが見えていて、薄っすらと影を作っている。影が揺れるたびに人が動いている。そんな光景を見ていると遠近感が取れなくなるのも当然といえば当然だ。
それに比べて薄曇りで雨模様の松江には、影を浮かび上がらせるものがないのだ。晴れていれば影を感じることができるだろうが、何といっても高所恐怖症の私である。そこまで見れる余裕があったかどうか……、きっとなかっただろう。
小泉八雲旧家を見終わったあと、二人で近くの茶室に入った。松江はお茶も有名で、お茶室も武家屋敷に残っている。本格的にお茶を楽しめるのは、やはり武家屋敷独特の雰囲気があるからだろう。
しかし、その頃からだっただろうか。私は少し疲れを感じてきた。
――おかしいな――
と感じ始めたのは、実は天守閣から下を見ている頃からだった。風邪をひいたような感じで、頭がボーッとしている。まるで以前この街に出張で来た時に引いた風邪を思い出し、少し吐き気を催してもいた。
何とかお茶室くらいまではもったのだが、そこから先はいけなかった。松江での観光の名所とも言うべき、城を中心とした城下町を巡ることができたので、少し安心したのもあるのだろう。一気に疲れとだるさが襲ってきたのだ。
「どうしたの? 汗びっしょりじゃない」
さすがに美佐子も私の異変に気付いたようだ。
「ああ、少し風邪気味のようでね」
それ以上は言わなかった。以前松江に来た時に風邪をひいた話をここでしても意味のあるものでもなく、黙って任せる方がいいと感じたからだ。
「風邪かも知れないんだ。すまない、せっかく観光していたのに」
「何言ってるの。そんなこといいわよ。それより大丈夫なの?」
「ああ、きっと宿に帰って薬を飲んで一眠りすれば、夕方には治ってるさ」
宍道湖から見える夕日を一番の楽しみにしていた美佐子のために、「夕方」という言葉を強調し、美佐子がそれをどう感じたかは分からない。しかし、気持ちは伝わっていることだろう。
時刻はそろそろ昼近くになっていた。とりあえず、宿の近くまで帰って、昼食を済ませ、部屋に戻った。何か食べないと薬が飲めないからだ。
「大丈夫なの?」
美佐子が本当に心配して横になっている私の顔を覗き込んでいる。きっと私が昼食にほとんど箸をつけていなかったのが気になったのだろう。食欲はまったくと言っていいほどなくなっていた。
「ああ、大丈夫だよ。少し眠れば元気になるさ」
「でも、あまり顔色がよくないみたいに見えるわ」
「心配いらないよ。夕方までには治ってみせるからね」
そういって美佐子を安心させたつもりになって、効いてきた薬のために、そのまま眠りについていたようだ。
やはり松江という土地には私だけのパターンがあるようだ。私は松江や広島に限らず、その土地でパターンを持っていることが多い。今まで意識していなかったが、風邪を引いて身体がだるい中で見た松江の風景は、私を出張で来た時にタイムスリップさせたようであった。何となく首周りに圧迫感を感じたし、緊張感もあった。首周りの圧迫感は言わずと知れたネクタイによるもので、緊張感は仕事で商談をしていたという対人関係にかかわるものだった。
身体の妙な軽さを感じていた。宿の前にある宍道湖に掛かる小さな橋を窓から覗いている。橋の真ん中あたりには一人の男が浴衣のようなものを着て、橋の欄干に手を掛けて下を見ている。体つきは思ったより華奢で、よく見ると、
――女性かも知れない――
と感じられた。
――着物を着ているようだ――
女性かも知れないと感じた瞬間に、女性が着物を着て、手には日傘を持っているように見えた。まるで母親のようだ。最初に見た雰囲気と完全に変わってしまった。
日傘を畳んだ女性が欄干に手を掛けたところから、見ているように感じた。
最初は短い髪型に見えたが、よく見るとストレートな髪が首をスッポリと隠している。完全に女性である。しかも不思議なことに、最初に見た時よりも次第に小さく感じられるようになり、橋自体も短く感じてきた。
――視線が遠ざかっているんだ――
作品名:短編集12(過去作品) 作家名:森本晃次