短編集12(過去作品)
今までであれば、「二股」などもってのほかだと思うだろう。しかし、実際にしていることは二股なのかも知れないが、自分自身の感覚として二股だとは感じていない。それも気持ちが「グレー」だから感じないのだろう。完全に感覚が麻痺しているのだ。
そう、今までならまみがここに来ないかも知れないと感じれば、私もこの店に来ることはないだろう。しかも曜日を変えてとはいえ、まみの座っている席に奈緒美を座らせるなど信じられないことなのだ。マスターに訝しがったのも当然であった。
しかし私の行動は意図があってしていることだった。
それは相手がどうのというよりも、自分の中で掛けていた「二股」への精算のようなものなのかも知れない。そうすることによって、グレーをハッキリさせようという思い、まみに最初感じた真っ赤な感じを、奈緒美にも感じてみたいと思っているのかも知れない。
私の顔はきっと今難しい顔になっているだろう。一点を見つめていて、まわりが見えないような表情になっていて……。
しかしそれでもいいと思っている。自分の気持ちへの精算のためには避けて通れない道だと思っている。そして何よりも自分の表情が思い浮かぶなど、今のようにまわりが見えない状態の自分では、今まで考えられないことだったのだ。
ゆっくりと店の中を、見渡してみる。
奈緒美が、
「何しているんだろう?」
というような顔をしてこちらを見ているが、それほど気にすることはない。
奈緒美という女性はあまり人のことを詮索しないタイプの女性だ。それはそれでいいところなのだが、少し冷たく見えるところがある。そんな時にも奈緒美に「グレー」を感じるのかも知れない。
時々、会話の端々で冷たさを感じる時がある。本人に自覚があるのかは分からないが、厭味なわけでもないので、気にならない人は気にならないだろう。しかし私のように、正面から彼女と向き合っていると思っている人間には、奈緒美という女が訝しく思える時があるのだ。
それはふとした時に感じるものだ。普通に楽しく会話していて、突然に感じるのだが、次の瞬間には勘違いだったのでは? と思うほどあっけらかんとしている。
そういえば、まみにも同じようなことがあった。
会話の途中で、別人ではないかと思ってしまうほど会話がかみ合わない時があった。それも一瞬で、顔にも現われていたのだろうが、暗いせいもあってかハッキリとは分からなかった。
――二重人格なのではないか?
私自身が少し躁鬱の気があるので、そのあたりには敏感なのかも知れない。
躁鬱の気があり、しかもさっきまで考えていたことを簡単に忘れてしまう私なので、集中力に欠けるところがあるようだ。二重人格が顔を出すために、記憶できないと考えるのは無理のないことなのだ。
――グレー――
そう、グレーという言葉は私にこそ当てはまるものではないのだろうか?
まわりには何人もの女性がいたとしても、それは自分の中にいる別の自分が支配しているものなのかも知れない。
――月曜日にはこっちの自分、水曜日にはあっちの自分――
こんな考えは危険なのであろうが、そう思えば辻褄の合うところもあるのだ。
奈緒美が私を不思議そうな顔で見ているのが印象的だったという記憶だけを持って、その日は店を後にした。
翌日私はもう一度、スナック「ロンリーバタフライ」に寄ってみようと考えていた。月曜日でもない、水曜日でもない。私にとっては何でもない木曜日にである。
その日の足は妙に軽かった。水曜日にまみと会えることを楽しみに歩いている足取りの軽さとは、また違ったものである。軽い足取りなのだが、気がつけば気ばっかり焦るせいか、息も上がらんばかりの無理な早歩きになっているのである。
しかし、その日は違っていた。気持ちにゆとりのようなものと、見たことのない木曜日の店を見てみたいという期待とで、余裕のようなものすら感じていた。汗ばむような蒸し暑さの中で時たま吹いてくる風に気持ちよさを感じることができるくらいである。
――あれ?
普段よりも、少し早い時間の「出勤」であった。いつもであれば、どうしても残業になってしまう月曜日なので、真っ暗な中のネオンサインに浮かび上がる街を横切る形での「出勤」なのに、今日はまだ暗くなりきっていない中での出勤である。
車もライトがいるかいらないか程度の明かりであり、いわゆる一番事故が起こりやすい時間帯ともいえる。
事故が起こりやすい時間帯というのは、それなりに理由があるらしい。
日が暮れきる前に一定時間というのは、色を感じないらしい。すべてのものがモノクロに見える時間帯が、ほんの数分らしいのだがあるようだ。そんな時間帯が一番危ないらしく、事故の危険性が大きい。
――グレー――
これもグレーである。すべてのものがグレーに見えてくると、そのグレーに打ち消されて見えなくなってしまうものもあるだろう。そんなことを考えていると、腹の辺りがムズムズしてきて、妙な気分になってくる。空腹なのも影響しているに違いない。
暑さも涼しさもあまり感じなくなった。
汗を掻いているのは分かっているが、歩いていると自然に乾いてきたのか、気持ち悪くは感じない。しかもそれが幕のようになっていて、吹いてくる風もあまり感じなくなっていた。
そのうちに「凪」のような状態になっているのが分かる。いわゆる「モノクロ」な時間帯だった。
さっきまで耳に鬱陶しくへばりついたように聞こえていたセミの声も、篭って聞こえるようになったかと思うと、今ではハッキリと聞こえなくなってしまっていた。耳鳴りのようなものが耳の奥を支配しているのだ。
角を曲がれば目指すスナック「ロンリーバタフライ」があると思ったその瞬間、角まで来ると、少し生暖かい風を一瞬だが感じた。
予感はその時からあったのかも知れない。角を曲がった瞬間、一瞬にして分かってしまったいつもと違う光景の原因は、普段なら分かるはずもなかっただろう。
――何か違うぞ――
と思いこそすれ、何がどう違うのかなど分かるはずもないだろう。
「あっ、ない」
思わず叫んでしまったほどだ。
そう、目指しているはずのスナック「ロンリーバタフライ」が、あるはずの場所から忽然と姿をくらましていた。
しかし、そのうちに目の前の光景に違和感がなくなってくるのも不思議だった。
ないならないで、なぜかその光景が当たり前のように思えてくる。まるで知らない土地や、初めて見た土地を、
――ずっと以前から知っていた土地――
と認識しているかのようである。
さらにゆっくり歩いて、スナック「ロンリーバタフライ」があったであろう場所を通り抜けてみた。
そのままゆっくり歩いていると、その先の角から店のあった辺りを角から見ている一人の男がいるのに気がついた。
その人に見覚えがあった。
一瞬、くたびれた初老の人に思えたが、よく見るとそこまで歳を取っているわけでもない。その人は私がいるにもかかわらず、ただ一点を見つめている。店のあった場所をである。
決して私を無視しているわけではないように思えるが、そう感じると、その人には私が見えないのかも知れないとも感じた。
作品名:短編集12(過去作品) 作家名:森本晃次