短編集12(過去作品)
前からあった店ではない。最初、喫茶店かと思っていたくらいの店で、喫茶店ではなく、散髪屋だということを知ってがっかりした記憶がある。私は喫茶店に造詣が深く、駅前などに新しい店ができると聞くと、喫茶店ではないかという思いでワクワクすることがあるくらいなのだ。
元々コーヒーは飲めなかった。あの苦い味が苦手だったのだ。しかし大学に入学して先輩に連れて行ってもらうことで、少しずつコーヒーが好きになっていった。香ばしい独特の香りに「大人の味」を感じるのだ。
その頃からだった。私が喫茶店に造詣を深めたのは……。
学生街に立ち並ぶ喫茶店、その中にはクラシック喫茶やジャズ喫茶などもあり、その日の気分で、いろいろ店を変えたりもしていたのだ。
もちろん、常連になっている店もある。コーヒーの味はもちろんのこと、店の人の人徳か、常連が多い店でもあった。
名前を喫茶「アルテミス」と言った。先輩に連れて行ってもらったのが最初だったが、そのうちに友達とも行くようになり、一人でも顔を出すようになった。一人の客も多く、そのほとんどが常連客である。
「由美ちゃん、ホットね」
店の扉を開くや否や、そういって席へと向う客は、私を含め常連客である。由美ちゃんというのはこの店の「看板娘」、同じ大学の同級生で、アルバイトをしていた。それだけに店主も大学生と話も合い、店主との話に花を咲かせる常連客も多いのだ。
私はどちらかというと、「由美ちゃんファン」の一人であった。誰にでも愛想のよい彼女に少なからずの嫉妬心を抱きながらも、店の扉を開かずにはいられない、そんな常連客の一人だった。
由美ちゃんと話をしていると、他の人の存在を忘れてしまう。それだけ集中して話ができるのだろうが、彼女の私を見つめる目がそんな雰囲気を作るのだ。
「私、近眼なの。だからついつい人の顔を睨みつけるようなところがあって、気に障ったらごめんなさいね」
そういって皆に話していたっけ。
いやいや、その視線こそが男の自尊心をくすぐるのだ。
「自分に気があるのでは?」
そう思ってみているのは自分だけではないだろう。分かっているのだが、どうしても自分への視線だけは他の人に向けられたものと違う気がして仕方がないのだ。
「由美ちゃんと話をしていると、眠くなるんだよ」
半分冗談、半分本音で話したことがあった。
安心感というのだろうか。由美にはそんな雰囲気がある。だから、私だけの恋人でいてほしいという願望がありながら、それほどの思い入れが表に出てこないのかも知れない。
その気持ちは散髪に行って、髪を切られる時の感覚に似ている。耳元で響く「ジャリジャリ」という鋏の規則的な音、静かな店内だからこそ睡魔を誘うのだ。
由美の声や息遣い、すべてが規則的に感じる。しかもそれだけ彼女との会話の最中は、まわりが気になっておらず、真空状態の中に二人だけがいるようなのだ。
その日に行った散髪屋、初めて来た時に感じたのは、
――女の子に髪を触ってもらうのが、どれほど気持ちがいいか――
ということであった。
それまでにも散髪屋で女の子に任せたことはあった。しかし今回馴染みになった散髪屋で髪を扱ってくれた女性に初めて髪を触られた時に感じた感触は、
――まるで電気が走ったような感触――
だった。
指の強弱の使い方はもちろん、触れるか触れないかといったところの絶妙な感覚は、性感にも似たものがあったのだ。
髪の毛を触られることへの快感は以前から知っていたはずなのに、あらためて知った快感は今までのものとは格段に違うものだった。
何度、気がつけば眠っていたことに気がついたのだろう。
それは朝の目覚めのような何とも言えない気持ち悪さを伴うものではなく、「ハッ」として覚める目覚めなのだ。
彼女は名前を奈緒美といった。それほど背は高くなく、散髪するには少しきついのではないかと思うほどである。
特に私は背が高いので、少しきついかも知れない。
「奈緒美さんでお願いします」
いつも私は彼女を指名している。理由は最初に私の髪をカットしてくれたのが彼女だからなのだが、同時に女性にカットしてもらうことの快感を教えてくれたのも彼女だった。
とはいえ、今までに女性にカットしてもらったのは彼女だけではない。長期出張で他の土地でのカットを余儀なくされた時に、一度他の女性にカットしてもらったことがあった。
もちろん、女性がいる散髪屋を探して入ったのだが、何かが違うのだ。
――別に眠くなるというわけでもないな――
違いといえばそこだけだろう?
気持ちがいいのは確かである。もし、奈緒美を知らずに初めてカットしてくれた女性がその時の女性であれば、
――女性のカットとは何と気持ちいいのだろう――
と奈緒美に感じたことと同じことを感じたかも知れない。しかし、それでも何かが違うのだ。
それが微妙な指タッチであることに気付いたのは、出張から帰ってきて初めて奈緒美に髪を触られた時だった。とても懐かしい感じがしたのと、初めて触られた時の、まるで電気が走ったような快感を同時に感じた時だった。力の強弱もさることながら、最初に触れたその時ですべてが決まってしまったのだ。
奈緒美はカットの時に話をしてくれる。ぎこちない話であるが、一生懸命に話している姿は、
――話をしてあげたい――
と思わせるに十分である。
それでも途中から襲われる睡魔には勝てずに眠ってしまうことがほとんどだ。最近ではそのことが分かっているのか、最初に数分だけで終わるような話にお互いが終始しているように思えてならない。
睡魔が襲ってくるのは、どうやらいつも同じ時間のようだ。それだけ同じタイミングでカットしてくれているのだろうが、一度意識して時間を見ていると、どうもカットが始まって十分くらいの頃のようだった。
最初からというわけでないところが逆に不思議ではあったのだが、それもきっと奈緒美の話に集中しようと気持ちが昂ぶっていたからに違いない。話をしていると意外と睡魔には襲われないものなのだろう。
微妙な指使いが、私を夢の世界へと誘う。
そんな気持ちが強くなり始めた頃であろうか。私は次第に奈緒美に惹かれていくのを感じた。
ゆかりとは付き合っていたといっても、どちらかというと私が振り回された結果になったのである。付き合っている時に自覚がなかったわけではないが、そのうちに普通の付き合いができると信じていたし、何よりも彼女がそこまでのワルだとは思っていなかった。
それはゆかりに限ったことではない。
この世の女性にそんなワルがいようなどということを実際に信じていなかったのだ。テレビのワイドショーなどで話題にされる悪女は、私にはあくまでも他人事、テレビが視聴率アップのための「でっち上げ」とまで思っていたくらいである。
ゆかりに対して好きだという感情を持ったとしても、それは虚空であるということは薄々気付いていただろう。
それまでの私は女性と付き合ったことがなかった。もちろん童貞だったのだ。学生時代に何度か機会はあったかも知れない。今から思い返しても、
――あの時だったのでは?
ということが数回あった気がする。
作品名:短編集12(過去作品) 作家名:森本晃次