短編集12(過去作品)
グレー
グレー
私は月曜日が来るのが待ち遠しい。
社会に出て間がない私は、マンモス大学を卒業し、平凡に中堅クラスの商社に就職していた。
名前は田端幸夫といい、皆からは「ユキオ」と呼ばれていた。紙に書く時は、カタカナと読み方が一目で分かるように、私が申し出たのだ。
あれはいつだっただろうか? 付き合っていた彼女と知り合って一年くらいだと思う。セミがそろそろ鳴き始める頃で、まだ蒸し暑さが残っている時期だった。曇天の空を見上げては、いつ雨が降ってもおかしくない天気に恨めしさを感じていた。グレーに染まった空は、その時の私の心情を表しているようで、あまり見たくもなかった。それでも見上げてしまうのは、きっと無意識の行動だったからなのだろう。
それまで髪を切っていないことに気がつかなかった。もちろん、鬱陶しいとは思っていたのだろうが、気にならないほどに感覚が麻痺していたのかも知れない。
当時、私はまだバブルの影響を受けてか、給料はよかった方だった。しょっちゅう飲み歩いてもそれでもお金が余るほどで、お金に困るなどということは考えられないほどだった。
付き合っている女性がいた。まだ純情だった頃の私は、彼女が欲しいというものは喜んで買っていたし、最初の頃の彼女はそれほど私に無理をさせなかったのが嬉しかった。
それも作戦だったのでは?
そんな風にも感じる。一旦憎くなれば、すべてが憎く見える。最初の遠慮が計算だったと考えれば辻褄が合ってくるから恐ろしかった。
いつ頃からだったろうか? 彼女は豹変した。
名前を思い出すだけでも腹が立つが、ゆかりと言った。
ちょうど付き合い始めて半年が過ぎた頃からだった。半年という区切りが最初からの計算なのか、私を見ていて「そろそろだ」と思ったのか、今となっては分からない。
元々、最初から無理な付き合いだったのかも知れない。どちらかというと地味な私に、ゆかりは典型的な派手好きだった。定職に着くこともなく、フリーターという言葉がまだ浸透していなかった頃だったにもかかわらず、収入のほとんどは自分を着飾ることに使っていたのだ。
別にそれでも構わなかった。付き合っている女性がきれいになっていくのは、男としても嬉しいことで、しかも、
「あなたの喜ぶ顔が見たいの」
などと耳元で囁かれでもしたら、とやかく言う理由がなくなってしまう。
実際私も感覚が麻痺しかけていたのかも知れない。
ファッションには無頓着だった私もゆかりの影響か、おしゃれに目覚めていたのかも知れない。決して派手ではないが、地味なりにゆかりがコーディネートしてくれるファッションは自分でも気に入っていたからだ。
しかし、それにしてもゆかりの金遣いは荒かった。無理のないようにしてはいたが、少しずつ気にはなっていたのだ。
ついにゆかりはとんでもないことを仕出かしてしまった。
無頓着な性格のため、無造作に入れられたカードなどで、財布の中身はパンパンになっている。そのため、一枚くらいなくなっていてもすぐに気付かない私だったのだ。
なくなっていることに気付いたのはクレジット会社からの請求書が届いた時だった。
「お買い物明細」
クレジットカードを持っていてもそれで買い物をすることはまずない。しかも明細を見る限り全部が全部女性モノである。顔面蒼白状態になり、たぶん急いで財布の中身を確認したことは間違いない。それだけ心臓の鼓動が耳鳴りと化し、意識が遠のくのを感じていたのだ。
犯人は分かっていた。どう考えてもゆかりしか考えられない。
しかしそれでもこの期に及んでも私には信じられなかった。一縷の望みをかけて、ゆかりを問いただす。
「これは君かい?」
声が裏返っているのが自分でも分かる。なるべく冷静にしなければと思えば思うほど、こみ上げてくる怒りを抑える自信がなくなっていく。
しばらく明細を黙って見ていたゆかりだが、それだけで彼女の犯行だということを、自ら認めているようなものだった。この時間がどれだけ長く感じられただろう? 目の前の女性が本当に私の愛したゆかりでないことを信じたかった。
「ええ、私よ。いけなかったかしら?」
何と、これがその期に及んだ彼女の態度だった。完全な開き直りである。
予想していたとしても、あまりにもの豹変ぶりに私はしばし言葉を失った。今までいくらかの欠点はあったが、一番望んでいた
――私への従順さ――
それがその欠片すらなかったのである。
あきれてモノも言えないとはこのことだった。怒っているのに声が出ない。不思議な感覚であった。
「一体どういうことなんだ?」
どんなに静かに言おうとしても、声が自然と大きくなる。相手は完全に居直っていて、
「あなたのものは私のものよ」
いくらか他にも言葉を並べていたと思うが、私はこの言葉にキレた。
――完全に裏切られた――
その感覚だけだった。そこから先、お互いにどんな言葉で罵倒しあったかなど覚えていない。きっと他人事で聞いていたら、これほど醜いものはなかったであろう。
さすがにいい加減お互いに疲れてきた頃に、私は自分が人間不信に陥っていることに気付いていた。女性不信を通り越しての人間不信である。
私の心の中に残った傷は、金額以上のものがあった。私は訴えることはしなかった。訴えてもよかったのだが、自分のプライドが許さなかったのだ。
――一体、この期に及んで何のプライドなんだ――
自問自答を繰り返したが、半分はどうでもよいと思っていたことでの脱力感から、行動に移す気力もなかったのだ。
それからすぐにゆかりは私の前から姿を消した。
――あの女、きっと同じことをまた繰り返すだろう。まぁ、俺にはどうでもいいことなのだが――
私にはショックと借金だけが残った。
理不尽ではあったが、借金だけは何とか返していった。
――あんな女に引っかかった自分が悪かったんだ――
とまで思えるようになるまでに、半年は掛かっただろう。それも地道な生活が私の心を癒してくれた。何と皮肉なことなのだろう。
借金を返すことで、自分を取り戻すことができた。もう、女性と付き合うこと、いや、出会いすらないだろうと思っていたのだが、それは思い過ごしだった。
――喉元過ぎれば熱さ忘れる――
こんなことわざがあるが、私もそうだった。元々が寂しがり屋であることもあって、優しくされればすぐにその気になってしまう。それが女性であれば尚のことである。
――悪い女のことは忘れよう。私に見る目がなかっただけなんだ――
そう思える女性が現れたことが、私を変えてくれる予感だった。
鬱陶しい髪が気になりだして、その日はいつもと違う散髪屋に出かけた。
土曜日ということもあって、早めに行かないと混んでくる。そんな感覚は無意識にあった。しかし、なぜ違う散髪屋に行く気になったかなど、そのあたりの心境は思い出すことができない。
作品名:短編集12(過去作品) 作家名:森本晃次