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短編集12(過去作品)

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 特に音響効果抜群の美術館の中、知っている声でも反響して分からないものであり、さらにまさか、ここで知り合いに会うなど、考えられないと思ったことが、すぐに声が私に向けられているということに気付かなかった原因なのだろう。
 声の主は甲高い女性の声だった。聞き覚えがあるような気は最初からあったのかも知れない。だが、
――まさか、私に声を掛けてくるなど――
 と思っていたこともあって、分からなかったのだろう。いや、最初から分かっていたような気になったのは後から考えて思ったことであって、最初から分かっていたということに関しては、まったく根拠のないことにも思えた。
「淳子ちゃん?」
 振り向くと同時にそこに立っていたのは、喫茶「スワン」で時々油絵の話をするアルバイトの野本淳子さんだったのだ。
 喫茶「スワン」では油絵の話ばかりではない。どちらかというと他の話が多いかも知れない。私の方が意識して、油絵のことは休日に集中したいという変な「こだわり」のようなものがあり、その「こだわり」が邪魔して、自分から話すことはない。といっても、話し始めればきりがなくなるのも事実で、他の話をしたい時など、敢えて油絵の話を封印していることも多かった。
 その日の淳子は店で見せる少し子供っぽい姿とは一変して、大人の女性に見えた。何よりもエプロンがないことと、持ち前の営業スマイルがないことがそう思わせるのだろう。
 営業スマイルといっても、彼女の場合は無意識なものだと思う。元々人と話すのが好きな彼女は接客業に向いているのだろう。それを無意識に出てくる笑顔が証明してくれていて、真っ赤なエプロンに映えているに違いない。
 店で見せる姿は彼女の活発な面が前面に出ていて、それが大衆受けするのだろう。しかし美術館で会った淳子の顔は、少しはにかみや照れ臭さもあってか、御しとやかに見えている。そんな淳子を今までに想像したことがあったであろうか? きっとなかったに違いない。だが、それも後から感じたことで、ずっと前から知っていた顔に見えるから不思議だった。
「山下さんは、よく美術館へ来られるのですか?」
「ええ、休日の時間のある時など、ここに来ています。まるで睡魔に襲われそうな雰囲気が好きなんですよ」
 気持ちをそのままに淳子に話した。すると、淳子もニコニコしながら、
「そうなんですか? 実は私もなんですよ」
 少し大袈裟目に頷いていたが、それがまるで子供っぽくて可愛らしかった。私には淳子が新鮮に見える時があるが、それはきっとこんな子供っぽい仕草をしている時だろう。
 面長で、単瞼の彼女はどちらかというと大人っぽさをその外観から感じることができるが、そのアンバランスさが私に新鮮さを与える。
 一通り一緒に美術館を見て廻った。気がつけば入場してから二時間以上経っていた。美術館で二時間くらいの時間を使うのは珍しいことではないが、一人で来た時と違い、あっという間に過ぎた気がする。
「あら、もうこんな時間。時間が経つのって早いですわね」
 私の言いたかったセリフを淳子が口に出してくれた。
「いや、まったくその通りですね。やっぱり誰かと一緒だと違いますね」
「あなたと一緒だと……」
 思わず出掛かった言葉を寸でのところで飲み込んだ。それにしても私が時計を気にしたのを見ていたのだろうか? それとも、私の表情から察したのだろうか? どちらにしても聡いたちなのかも知れない。
 美術館の表に出ると、そろそろ西日が差し込んでくる時間で、昼の暑さが少し和らいでいた。そういえば、昼食をまだ食べていなかった。中途半端な時間ではあるが、お腹が空いてきた。
「昼食、食べられました?」
 淳子に聞いてみる。
「いいえ、朝食が遅かったものですから、まだですの」
「私もまだなんですが、ご一緒しませんか?」
「ええ、それでしたら、素敵なお店を知ってますの。イタリヤ料理の店なんですけどね」
「はい、ご一緒します」
 淳子は洒落たイタリヤ料理の店を知っていた。入り口にはイタリアの国旗を象ったマットレスが敷かれていて、店内も明るく、カウンターの奥にはワインがズラーっと並んでいた。
「ここは以前付き合っていた彼とよく来たところなんです」
 全身から落ち着きが現われている淳子なので、今までに男性との付き合いがなかったなどとは、端から思っていない。しかしさすがにいきなり言われて少しビックリしたのも事実である。
「でも、もう別れてから一年以上経ちますし、ここに他の男性と一緒に来たことはないんです」
「それは光栄ですね」
 そう答えながら気持ちはまんざらでもない。本当に光栄に思えてきた。
「その付き合っていた彼とは油絵関係で知り合ったの?」
「そうですね。彼とは感性が同じようなところがあるので惹き合ったんでしょうが、それ以外のところではあまり共通点がなかったですね。だからかしら、少し距離が離れると、もう元に戻すことはできなかった。お互いに意地のようなものもあったでしょうし、彼には変な芸術家肌のところがあったので、私の性格とは反発しあったのかも知れません」
「では、僕はどう思うかい?」
「あなたは私から見れば大人の男性ですね。きっと優しく包み込んでくれそうな感じのする人ですが、でも、あなたにも少し自分の世界がおありになるのでは?」
「確かにそうですね。包み込んであげられるかどうかは分かりませんが、僕には自分の世界があると思っています」
「それは油絵の?」
「いえ、違います。確かに油絵を描く時は自分の世界に入りますが、それとは違う世界が僕にはあるみたいなんです。でも、それって自分ではよく分からないんですよね。生活全般に自分の世界があるのか、生活の中のどこかの部分であるのか分からない。時々自分で何をしようとしていたのか急に分からなくなる時があるのですが、きっとそんな時、自分の世界に入り込んでいる時ではないかと思うのです」
 私はそう淳子に話しながら、自分の過去に思いを馳せていた。
 いつ頃だったのだろう? 子供の頃から急に考えていたことが分からなくなることがあった。瞬間的な記憶喪失のようなものではないかと思っていたが、淳子の話を聞いていて「自分の世界」というのを考え始めると、辻褄が合ってくるような気がする。
 それが週休二日制を楽しくしてくれるきっかけとなった、とある土曜日のことであった……。

 それから私は淳子と付き合うようになっていた。お互いに油絵をやっていながらあまりそのことに触れなかったのは、作風が違っていたからであろうか。最初の頃に少しだけ触れたことがあったが、どうにも話が噛み合わなかったのを覚えている。話が噛み合わないまでもお互いに合わそうとして、却ってぎこちなくなった。
 お互いにそのことに気付いたのだろう。どちらからともなく油絵の話はタブーになっていた。
 それでも、お互いに気持ちが通じ合うものがあることが分かっていたのか、それ以外の会話は弾んでいた。
――何も趣味の話をして議論を戦わせる必要などない――
 と、そう思っていたのである。
作品名:短編集12(過去作品) 作家名:森本晃次