短編集11(過去作品)
甘い香りを確かめようと大きく息を吸った。するとモノクロだった背景がカラーに戻り、風も微妙に吹いてきた。甘い空気だけはほんのりと残ったが、それも嗅覚が覚えているからというだけだろう。ほんの一瞬の錯覚だったのかも知れない。
中に入るとすでに焼香に訪れる人が列を作っていて、サラリーマン風の人が多いところを見ると、さしずめ会社の上司や同僚といったところの訪問が多いようだ。そういえばみずほは中学時代、親戚が少ないと言っていたのを思い出した。
受付で挨拶を済ませ中に入った。それぞれの神妙な顔をした雰囲気や、線香の匂いの混じったお経を聞いていると、嫌が上にも緊張が高まってくる。頭の中では、まだみずほが死んだなどと認めたくない自分がいて、この場の雰囲気と葛藤を続けている。
唇を真一文字に結び、いつもより瞬きの回数が数倍多いのは、緊張している証拠だった。そこまでの自覚を持っているのは、それでも幾分か冷静な証拠なのだろう。昔好きだったみずほがどんな女性になっていたか、それが最大の興味だったのだ。
「うっ」
順番が来て霊前に向かって手を合わせた。その時遺影を見上げたのだが、その顔には確かに見覚えがあるではないか。最初はそれが誰なのかはっきりと分からなかった。しかし瞬きを数回重ねるにしたがって、今は見下ろされているが記憶の中では見上げらている女性が頭に浮かんだ。
「あの時の……」
声になったような気がしたが、誰も気付かないのか神妙にうな垂れていて、あちこちからすすり泣くような声が聞こえるだけだった。あの時とは駅前の喫茶店で私を見上げていた女性を見た時である。確か二日目に見た女性だった。
しかし私が驚いたのはそれだけではなかった。
あの時の女性の表情は今でも脳裏に焼きついているが、遺影に掲げられたみずほの表情とまったく変らないではないか。それも一番最初に目が合った時の微笑みかけるような表情……。見上げるのと見下ろすのとの違いこそあれ、遺影の表情には間違いなく見覚えがあるのだ。
遺影を見ている私は懐かしさのようなものがこみ上げている。
確かに気持ち悪さも感じるが、それよりも最近の考え事の中でみずほの占める割合が多かったことを思い出すと不思議な気分になる。彼女の家をあとにしても、そのことが引っかかっていた。
もちろんみずほの死は私にとっても悲しいものだった。できればもう一度会って話がしたい。考え事をしている中でもそれが頭を擡げていたからである。
というより、みずほに会って何か聞きたいことがあったような気がして仕方がないのだ。それが何であったかが、死んでしまったことにより永遠に封印されてしまい、それが何とも口惜しい。
たぶんこれからみずほを思い出すとしたら、そのことが気になるからに違いない。
そういえば、私が考え事をするタイプであるということを気付かせてくれたのはみずほだった。
それまでは考え事をしていても自分でその意識はなく、我に返ると今まで考え事をしていたことさえ忘れてしまっている。
「また、考え事?」
目を瞑ると、そう言って私に微笑みかけるみずほがいる。しかし瞼に浮かんでくるみずほの顔は喫茶店の窓から見た女性であって、中学時代のみずほでもなければ、まして遺影として飾られていた顔でもない。
喫茶店の窓から見た女性が本当にみずほだったのかを、木下に確認してみたい気もしたが、みずほの家から離れるにしたがって、どうも別人だったのだという思いが深くなってくる。もちろん根拠などどこにもないが、私の直感では違い人なのだ。
しかしその日一日みずほのことばかりが頭から離れなかったのは、言うまでもないことだった。
別人かも知れないが、あの時見た女性がみずほに似ていたからだ。もしあの女性を見なければここまでみずほのことを思わなかったであろう。
あの日みずほに似た女性を見たおかげで、それまでに自分の夢の中に何度かみずほが現れたことを思い出した。顔にはモザイクのようなものが掛かっていたのか、目が覚めたら顔を忘れていたため思い出せなかったが、コンコースから出てきた女性の顔が頭から離れなかったのは、それが原因に違いない。
「夢か……」
そう考えると喫茶店の窓からコンコースを眺め始めて、日替わりで気になる人々を見続けてきたが、彼らもすべて今まで自分の夢に登場してきた人たちではないかという思いが浮かんでくる。
顔を思い出そうとしても思い出せない人が多いが、そういえばみんな初めて見た顔には思えなかったような気がする。それだけに印象も深かったのだろうが、元々私は人の顔を覚えるのが苦手である。
翌日から私にはまた普段と変らぬ生活が待っていた。
いつものように朝、喫茶店でモーニングセットを食べながらコンコースから出てくる人を観察することから始まる毎日である。
相変わらず、コンコースから出てくる人が私を見つめているという思いに変りはなかった。変な意味で慣れてしまったのかも知れない。見つめられてもそれを当たり前のように感じているが、前から知り合いだったのでは、と思うことで私の中で無理やり納得させようとしている。そこに “夢”というものの存在が大きく立ちはだかっていることを、私自身認識していた。
しかしコンコースから出てくる時の表情と夢に現れた時の表情が明らかに違っていることに気が付いたのは、やはりみずほの一件があったからかも知れない。
確かにコンコースで見た顔をどこかで見たことがあると感じたのは、夢の存在があったからだ。
コンコースから覗いた時の彼らの表情は一様なパターンを示していた。最初は無表情なのだが、次第に表情に変化が現れ、一瞬驚愕な表情になったかと思うと、その表情はこちらを意識してのものである。
どの表情が一番印象に残っているかと言われれば、私は迷わず最初の表情と答えるであろう。無表情で顔色もはっきりとしないようなその顔は、まるで死相が現れているかのごとくである。
死相?
私の頭にある考えが浮かんだ。
そうなんだ。死相が現れているように見えるから、みずほが死んだと聞いた時も驚きはしたが心の中のどこかでなぜか信じることができるのだった。その顔が頭に浮かんでいるにもかかわらず、たぶん意識として現れなかったのは、私が現実以外を信じないタイプの人間だからであろう。
ひょっとして、人の死が分かるのでは?
そんな思いが頭の中を巡った。毎日ここから見てきた人々は一様に死相が現れていた。それは間違いないのだ。
最初に分かったのがたまたまみずほというだけのことであって、ただの偶然ではないのかも知れない。
予知能力?
私の想像は衰えを知らない。
元々考え事をするとまわりが見えなくなる私は、大事なことを見落としているのではないか? と思うようにもなっていた。
じゃあ、今までに見てきた人はもうこの世にいないのでは?
考えてはいけないと思いつつ、頭から離れない。
しかし彼らが見つめていたのは一体誰なのだろう。一見私の見つめているように見える視線も実は焦点が合っておらず、まるで私の後ろ遥か遠くの虚空を見つめている気がして仕方がない。
作品名:短編集11(過去作品) 作家名:森本晃次