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短編集11(過去作品)

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 だが、目の前に現れた男性に関しては大体想像がついた。たぶん三十歳前半くらいであろう。確信に近いものがあった。グレーのスーツをパリッと着こなしてはいるが、なぜかサラリーマンとは思えなかった。
――私以外が見れば、きっとサラリーマンにしか見えないだろう――
 まったくの無表情さがクールな雰囲気を醸し出している。店内を見渡すこともなく歩いてくるが、一瞬立ち止まったかと思うと、彼女を見つめた。
 それでも無表情の彼に対し、彼女の表情に穏やかさこそあれ、含み笑いが浮かんでいたことを私は見逃さなかった。
 完全にアイコンタクトを取っている。男の無表情さからでも彼女には分かるのだろう。しきりに表情を変えながら何かを訴えかけている。
 それに呼応する男は納得したのか、彼女から視線を逸らした。明らかに何かを納得したようで、そのクールな表情のまま顔の向きが変わった。
 何と顔の向きの変わった先というのは、この私ではないか。
 まったく変わることのないその表情で見つめられたら、たぶんそのまま凍り付いてしまっていただろう。本能的にたじろいで、隙を見せたかも知れない。
 しかし、男は私を見るなり表情が一変した。少し驚いたような表情を浮かべたかと思うと、表情が和らいでくる。そこには懐かしさのようなものがあり、私に安堵感を植え付けるに十分だった。最初の表情とあまりにもギャップがあったので戸惑ってしまったが、氷が溶けたような気持ちである。
 私の心も温かくなる。
 その男とは間違いなく初対面のはずである。会ったことなどあろうはずがない、という何の根拠もない自信めいたものが、なぜか心の中にあった。しかし、その目の奥を見る限り、懐かしさを感じる。私は人の目を見て話をする方で、じっと見つめていると瞳の奥が見えてくるほどである。
 私は男の瞳の中を覗いてみようと思った。初対面ではなかなかそこまではできないのだが、この男ならば瞳の奥を覗くことができるような気がするのだ。
 相手の瞳を見つめる時というのは、かなり神経を集中させなければならない。目尻から頬にかけての筋肉は硬直し、かすかな痙攣を起こすこともある。しかし、その状況に慣れてくると、まるで宙に浮くかのような身体全体の開放感から、血が逆流するのでは、と思うほど、身体が熱くなってくる。しかし汗を掻いてくるようなものではなく、爽快感を伴うものだ。
 その時の私には、間違いなく同じ思いがあった。
――これなら、男の瞳の奥が覗ける――
 という思いでいっぱいだった。
 今まで人の表情を見てきた中で一番印象に残ったのは、ある作家のサイン会に行った時だった。目の奥を偶然にも見ることができたのは、その人も私に見られていることが分かっていて、自分も私を見ていたからに違いない。私にはそう思えた。そして見つめるうちに、金縛りに遭ってしまったのだ。
 瞳の奥には青い空と、ススキの植わった果てしない高原が広がっている。そこで米粒ほどの黒いものが蠢いているのが見えた。たぶん一部だけ見ていたのでは分からなかっただろう。普通なら逆なのだろうが、全体を見渡すことで小さな米粒ほどのものを見逃さなかったに違いない。
 気になってくるとゆっくりズームインしてくる。まるで私の意志が分かっているかのようであった。
 それはどうやら人間のようである。果てしないススキの植わった高原で何をしているのだろう?
 どこを向いてもススキの高原、完全に方向感覚を失ってしまって、その場から動くことさえできない。完全に理性を失っているかのようだった。
 私は男を見つめ続ける。
 すると男は私に気がついたようだった。上を見上げ、私を見つめる。
 さらにズームされ、男の表情がはっきりと見て取れた。
――おや?
 その顔はまさしく私だった。驚きのため思考回路が麻痺してしまったかのようだが、身体だけはまるで宙に浮いたようにリラックスしている。
 びっくりしたと同時に、作家というものがどれだけ洞察力の鋭い人たちなのかということを今さらながら思い知らされた。覗こうとしている相手をすでに自分の中に取り込みイメージしている。それがまさしくあの光景だったのだ。
 作家が見た私のイメージとはススキが植わった果てしない高原で彷徨っているというもののようだ。それからの私はそのことが頭から離れないでいた。
 それまでにも人の瞳の中を覗いてみることはあった。実際におぼろげながらに見えているたが、本当に確信を持って見えるようになったのは、作家の瞳の中を覗いてからのことだった。
 それから以降、私が覗いてみようと思って見えなかったことはなかった。しかし瞳の中を覗いてみる相手はなるべく選ぶようにしている。なぜなら、これほど神経を集中させなければならないものはなく、体力的にも限界があるからだ。実際に見え始めてからの体力はそれほどいらないのだが、最初に使う体力が半端ではない。
 初対面で、しかも私に視線を向けたその男の表情は、まさにカッと見開いた目が私を捉えていた。それはまさしくサイン会で感じた作家のあの視線に似ていた。私が瞳の奥を覗けるのだろうと感じたのは、それがあったからで、体力的にも精神的にも十分に余裕もあった。
 瞳の奥を覗くために集中していた神経が次第に瞳を中心に高まっていく。
――あともう一息だ――
 視線が次第に相手の瞳に集中していき、今まさに瞳の中に入らんとしていた。
――おや?
 確かに私の神経は相手の瞳の中に集中していた。相手の心が垣間見れる瞬間だったはずである。しかし見えてくるはずの相手の心が見えてこない。
 私は瞳の奥に見えるものを想像していた。確率は五分と五分である。
――ススキの植わった高原に一人彷徨う私――
 作家の中に見たものと同じ光景を思い浮かべていた。男も私に集中していた。もし相手が私より先に私を捉えたのなら、見える光景はそれしかなかった。だが、私が先なら相手の心の中が覗け。相手は自分の姿を私の瞳の中に見るだろうと思っていた。
 しかし私の予想に反し、実際はどちらでもなかった。完全に暗黒の世界で、その大きさを計り知ることも、奥深さを計り知ることもできなかった。ブラックホールのような、入り込むと抜けられなくなってしまうような暗黒の闇から一刻も早く脱出したくて、すぐに目を閉じてしまった。
 目を逸らすだけでは逃れることはできないかも知れない。いや、それよりも目を瞑ったという行動は、私にとって無意識だった。
 歯を食いしばるように目を閉じていると、自分の瞼の裏の暗黒に吸い込まれそうになってくる。しかしそれは男の瞳のものと違って、自分の中にある暗黒なのだ。したがって一番分かっている暗黒であり、自分の技量を計り知るには一番の行動でもある。
――やはり、あのまま見続けていたら、怖かったかも知れない――
 少なくとも相手の男は私にとって未知数だった。だが、なぜか同時に以前にも同じような思いがあったのでは、と思えて仕方がない。意外と相手を見つめることの多い私は、同時に相手から見つめられることも多いのかも知れない。
 どれくらい目を瞑っていただろう?
作品名:短編集11(過去作品) 作家名:森本晃次