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短編集11(過去作品)

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 学生である自分に、知らない世界を拡大解釈して描くことができるだろうかというもので、描くとしても一番難しい部分に違いない。
 確かに知らない世界を勝手な想像で描くのが小説というものかも知れないが、あまりにも実生活からかけ離れたものを想像し、描くことへの抵抗感も否めない。
 時々、ここで面白い人を見かけることがある。
 マスターにそのことは話していないが、いつも私の目はその人物に注目している。
 その人が現れるのは不定期だった。私もどちらかというと不定期なのだが、それでも三回に一回くらいの割合で見かけるので頻繁に来ている人物か、よほど私と相性が合う人物なのだろう。
 その人のことに関して、私はわざとマスターに聞くことをしない。いつも黙って行動パターンを見つめているだけで、もし聞いてしまったら私の望むような行動パターンではなくなってしまいそうな気がするからだ。
 最初はほとんど気にならなかった。気にしなければ今でも全然気にならない人なのかも知れない。なぜ気になったのかなどきっかけすら覚えていないが、いきなり気になり出したのだ。
 私が気になり始めたのはつい最近である。
 それ以前からひょっとして常連の一人だったのかも知れない。しかし私にはそんな気はしなかった。前からいたのであれば、最初から気になっていたと断言できるくらい私には特異な存在に思えた。
 店に入ってくる時の音からして違う。この店の入り口には鈴がついていて、扉を開けるたびに「カラン」という少し鈍めの音が聞こえてくる。入ってくるのも人それぞれで、強く押す人ゆっくり押す人それぞれで鈴の音も違う。
 それは分かっていることである。
 この男に限っていえば、どちらかというと強引な開け方をするタイプで、少し高めに音が響いてしかるべきだ。しかし、実際に響く音はそれよりもずっと低い音で、重低音が鳴り響くわりには、いつまでも余韻が残っていたりする。こんな入り方をする人は他にいない。私も鈴の音に慣れてきているのか、音には敏感なつもりである。
 しかも他の人が入ってくる時は、同じ人物であっても、その時々で微妙に違ったりする。それは風の強さ、気温や湿気が違うので、それによっての微妙な変化は当然といえば当然である。が、この男だけはいつも同じリズムで同じ音、私には理解の範囲を超えている気がした。
 私はいつも反射的にその音を聞いて振り向くのだが、その男はすでに扉の近くの席に腰掛けている。不思議なことにどんなにテーブルが混んでいる時であっても、その席だけは空いているのだ。
 その人が入ってきてから座るまで、私の耳に入ってくる音はいつも遮断されている。軽い耳鳴りのような音が響いたかと思うと、入ってくる音は男の歩く靴音だけである。
 時々男の足元を見るが、いつも同じ靴だとは限らない。革靴の時もあればスニーカー、はたまた安全靴の時もある。
 しかしなぜだろうか。靴音はいつも同じなのである。
 最初に見た時に履いていた革靴の音がよほど耳に残っているのか、その音だけが耳の奥から響いているようだ。
――そうなんだ、これは私の耳の奥から響いている音なんだ――
 うまいこと男の歩調に合わせて聞こえてくる。男の歩調パターンがいつも同じことを示していた。
――気にしてはいけない――
 私が気にしていることを他の人は知らないだろう。しかし、実際に男はどうだろう。じっと見ているのだから気になってしかるべきだ。そう思った瞬間、男の視線を感じてしまう。
――やばい、気がついたかな?
 なぜか、いつものように、視線が合ったわけでもないのに、男が私を見つめるような気がして、思わず視線を逸らしてしまう。それも同じタイミング、目が合ったことは一度もない。
 気付いていないだろうと、たかをくくっているが、その自信がどこから来るのか自分でも分からない。感じた気がする視線も、気のせいだと思えるほど一瞬だったのだ。
 今度視線を向けると男はコーヒーを飲んでいる。手には文庫本が握られていて、視線は本に集中している。誰が見ても、普通の喫茶店の客である。私が気にしなければいいだけのことなのだ。
 男の行動が手に取るように分かる自分が気持ち悪くなった。手に持った文庫本のタイトルが「夜の蝶」ということまで分かっている。作者は私の好きな人なので、ついこの間読んだばかりだった。
 内容はというと、一口に言えば恋愛小説である。青春小説のようなものではなく、純文学に通じるような恋愛ものである。大人の世界を描くのが得意な作家の作品だけあって、ブックカバーのデザインも少し露出が多めの女性の姿だった。
――カバーのインパクトが強いわりには、タイトルにそれほどの露骨さがない――
 これが最初に見た時の私の印象だった。なるほど、内容にしても少しドロドロした人間関係を、さらりとした表現やストーリー展開でまとめている。そんな作風の目立つ作家である。
 作家の名前は、基山良一。昨年に大きな文学賞を受賞し、今年一番の注目作家として、書店のレジ横の注目作家コーナーにいつも飾られている。
――私に書けるような作風ではないな――
 これが最初に読んだ時の感想だった。
 恋愛もの自体苦手な分野だし、しかも純文学、書き出しから想像もつかないジャンルなのだ。書き出しにインパクトを与えるということでは共通性があるが、特に基山氏の作品には書き出しが命のようなイメージがある。いかにドロドロした内容を普通の恋愛小説に持っていくか、それは書き出しのインパクトの強さに掛かっていると言っても過言ではない。
 最初にインパクトを与えておけば、その後の展開が楽になるというものだ。それは私も分かっているつもりだが、アマチュアな私など、いつもさりげなく書き始め、書き終わってから読み返した時に知らず知らずに最初のインパクトの強さを感じているようになれることが一番だと考えている。
「夜の蝶」という作品もそうであった。
 この作品はそれでもこの作者から言えば少し異色かも知れない。確かに同じパターンで描かれているが、他の作品のようなドロドロした内容が、一番身近な内容なのだ。他の作品は、普通の人があまり立ち入ることのない世界を描いているにもかかわらず、この作品だけは日常起こりうる内容の話で、ある意味気持ち悪い。基山氏の作品は、風俗などの知らない世界をリアルに描くことで読者を魅了する作家なのだ。
 基山良一という作家は謎の多いことでも有名な作家だった。出版社の人も彼の実態についてはあまりよく知らないらしい。週刊誌の広告の見出しに、
「ついに発見、謎の作家基山良一の隠れたる生活とその生態」
 なる記事を宣伝していることからも、皆周知のことだった。
 しかし私は週刊誌の記事にはさほど興味を示さない。基山良一という作家の作品には興味があるが、作家本人に関してそれほどの興味はない。確かに作風から考えてどんな生活から滲み出た作品なのだろうかと考えなくもないが、それを知ったところで、私の執筆意欲に何ら影響はないと思われるからだ。
作品名:短編集11(過去作品) 作家名:森本晃次